※ 昔話「浦島太郎」に着想を得た、やさしい別世界線のお話です。
竜宮城では数日だった。
地上では、気の遠くなるほどの歳月だった。
浜辺に立ち尽くし、浦島太郎はしばらく口を開けたままだった。
見たこともない建物。
聞いたこともない音。
走る鉄の箱。
手のひらを見つめながら歩く人々。
村は消えていた。
いや、村どころか、世界そのものが別物になっていた。
「……帰ってきたくなかったかもしれん」
その時だった――
懐に入れていた小さな貝殻が、ぶるぶると震えた。
青白く光る貝殻の内側に、文字が浮かぶ。
📞 乙姫様から着信中
「えっ」
恐る恐る耳に当てると、澄んだ声が響いた。
「もしもし浦島太郎さん?
ご帰還後のお困りごとはございませんこと?✨」
「まず全部です」
第一章 スマホという玉手箱
三日後。
浦島太郎の手には、薄い板が握られていた。
「これは何だ」
「スマートフォンですわ」
貝殻越しに乙姫が答える。
「現代人は、その小さな板の中に人生の半分を入れておりますの」
「怖い時代だな」
「まず電源を入れてくださいませ」
「電源とは」
「そこからですのね」
一週間後――
浦島太郎は、動画サイトで「初心者向けスマートフォン講座」を見ながら、魚をさばいていた。
「飲み込みが早いですわ!」
「竜宮城の宴より、こっちの方が珍妙だ」
第二章 職探し
「働かねばならん」
浦島太郎がそう言うと、乙姫は少し嬉しそうだった。
「素晴らしいですわ。前向きでいらっしゃる」
「飯が食えぬ」
「それは最優先案件ですわ」
乙姫の助言で、浦島太郎は面接へ向かった。
履歴書にはこう書かれていた。
- 漁業経験:長年
- 潜水経験:非常に豊富
- 海洋生物との交渉経験:あり
- 異文化適応力:高い
- 竜宮城滞在経験:あり
面接官は黙っていた。
「落ちたな」
「まだ分かりませんわ」
三日後――
浦島太郎は、水族館に採用された。
亀の飼育担当だった。
「なんだこの因果は」
「ご縁ですわ✨」
第三章 玉手箱の真実
ある夜、浦島太郎は押し入れの奥から、あの玉手箱を取り出した。
「結局、これは何だったのだ」
貝殻越しに乙姫は少し黙った。
「……保険でしたの」
「保険?」
「もし現代に馴染めず、すべてが苦しすぎたなら」
「うむ」
「一度開けて、全部どうでもよくなるほど老けてしまえば、細かい悩みなど気にならなくなるかと」
「雑だな!?」
「若かったんですの、わたくしも」
第四章 再会
春の終わり、水族館の閉館後。
亀の水槽の前で、浦島太郎は小さく笑っていた。
「なあ、乙姫」
「なんですの?」
「帰ってきてよかったかもしれん」
少し間があって、乙姫は言った。
「わたくしも、そう思っておりますわ」
「会えぬのは寂しいがな」
「オンラインで十分ですわ」
「十分ではない」
貝殻の向こうで、ふっと笑う気配がした。
「では、次の満月の夜。
海辺へいらしてくださいませ」
終章 第二章のはじまり
満月の夜、浜辺に立つと、波打ち際が青く光っていた。
そこに立っていたのは、昔と変わらぬ姿の乙姫だった。
「久しいな」
「五Gが海底まで通りましたの」
「そこではない」
乙姫は笑い、少しだけ真面目な顔になった。
「浦島太郎さん。
あなたは失ったものばかり見ておいででした」
「……そうかもしれぬ」
「けれど、これから得るものも、まだたくさんありますわ」
波が寄せて月が揺れた。
浦島太郎は、ようやく気づいた。
帰還とは終わりではない。
遅れて始まる人生もあるのだと。
そして乙姫は、くすりと笑って言った。
「さて。次はキャッシュレス決済を覚えていただきますわ✨」
「……海の方がまだ分かりやすい」
波音だけが、しばらく明るかった。

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