期待の糸が切れたあとに私に起きたこと

── 赦さず、憎まず、心の世界を交わらせないという選択


目次

空白がやってきた

最近、父との関係について、自分の内側ではっきりとした変化が起きた。

怒りでも、悲しみでもなかった。
最初にあったのは、空白だった。

何かを許そうとする気持ちも、何かを責めようとする気持ちも、どちらも浮かばなかった。

ただ「もうここには触らなくていい」という感覚だけが、静かに残った。


親子だから、深いものだと思っていた

私はどこかで、親子という関係は努力や時間を重ねれば深く交わるものだと思っていた。
分かり合えないことがあっても、向き合い続ければいつかは歩み寄れるのではないかと。

それは期待というより、前提に近かったのだと思う。

けれど、ある瞬間、その前提が音を立てて崩れた。

彼は変わらなかった。
そして多分、変わる必要を感じてもいなかった。

その事実を、もう言い換えられない形で突きつけられた。


期待の糸が切れた感覚

そのとき「失望した」という言葉より先に、糸が切れたという感覚が来た。
長いあいだ無意識のところで「分かり合えるかもしれない」という糸を握り続けていたのだと思う。

それがぶちんと切れた。

すると、不思議なことに強い感情は湧かなかった。
代わりに出てきたのは、深い疲労と「もう同じ作業を繰り返したくない」という感覚だった。


赦すことも、憎むことも、したくなかった

その後、自分の中からこんな言葉が出てきて、少し驚いた。
「赦すとか、憎むとか、そういうことさえ、もうしたくない」

赦すことも、憎むことも、どちらも相手を心の世界に置き続ける行為だ。
でも私は、もうそれ自体を終わらせたかった。

関係を修復したいわけでもなく、断絶を宣言したいわけでもない。
ただ、心の世界を二度と交わらせたくなかった


これは感情ではなく構造の変化だった

後から気づいたのは、これは単なる感情の揺れではなく内側の構造が変わった出来事だったということだ。

・理解しようとする回路
・期待を結び直す回路
・関係を保とうとする役割

それらが一斉に停止した。

壊れたのではない。
役目を終えた、という感覚に近い。

だから、悲しさはあるけれど、同時に
もう戻れない場所に来たという実感もあった。


美談に巻き込まれないという選択

私は、この関係をきれいな物語に仕立てるつもりはない。

「最後は分かり合えた」
「親子だから愛があった」

そういう言葉に自分の人生や沈黙を使われたくない。

何も感じない自由。
語らない自由。
巻き込まれない自由。

それを選んだだけだ。


「もう傷つききった」と思っていい

今の私は「もう傷つききったと思いたい」
そう感じている。

それは諦めではなく、これ以上新しい傷を増やさないための
境界線だ。

掘り返さなくていい。
意味づけしなくていい。
回復の物語を作らなくていい。

私は、
私の世界を守るんだ。


終わりに|これは完了の記録

この文章は、誰かを責めるためのものではない。
そして、理解してもらうためのものでもない。

忘れないために書いた。
もう一度、自分を疑わないために書いた。

私の世界と彼の世界は、ここで交わらなくなった。

それで、完成だと思っている。

Domine, ad te clamavi;
vulnera mea tua tibi commendo.
Exaudi me,
et da mihi requiem

この灯を 必要な誰かへ
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