これまで、情報との付き合い方について何度か書いてきた。
情報に疲れたとき、どう距離を取るか。
刺激の強い言葉に飲まれないために、どう心を守るか。
静かな時間を失わないために、どう選び取るか。
けれど最近、もうひとつ奥にある問いに触れた気がしている。
人は、なぜ強い言葉に惹かれるのだろう、と。
目次
情報の問題だけではなく心の問題でもある
刺激の強い言葉が広がるのは、発信の仕組みだけが理由ではない。
そこには、人の心の動きもある。
不安なとき。
先が見えないとき。
複雑な現実を抱えきれないとき。
そんなとき、人は単純で断定的な言葉に安心しやすくなる。
- 問題の原因はあの人たちだ
- この方法だけが正しい
- 敵をなくせばよくなる
- 私たちが取り戻さなければならない
本当は現実のほうがずっと複雑でも、
わかりやすい言葉は一瞬、心を軽くする。
分断は怒りだけで広がるわけではない
怖いのは、分断が露骨な悪意だけで生まれるわけではないことだ。
- 正しいことをしている
- 社会を守っている
- 秩序を取り戻している
そんな顔をして近づいてくることがある。
だからこそ、自分でも気づかないまま、
誰かの尊厳を削る側に立ってしまうことがある。
情報との付き合い方に必要なのは速度より姿勢
新しい情報を早く知ることより、
強い言葉にすぐ心を預けないこと。
正しい側に立った気分になることより、
見えない誰かの暮らしを想像すること。
断定することより、
少し考える余白を持つこと。
本当に大切なのは情報量ではなく姿勢なのかもしれない。
私が忘れないために
強い言葉にすぐ同意しない。
誰かを雑に断じる声にそのまま乗らない。
数字や属性の向こうに名前のある一人を見る。
世界が騒がしいほど静かな言葉を選ぶ。
答えを急がず考える時間を持つ。
私は炎になる必要はない。
灯りであればいい。
おわりに
情報との付き合い方を考えることは、
画面との距離を考えることだけではない。
その情報に触れたとき、
自分の心がどこへ向かうのかを見つめることでもある。
熱狂の時代にこそ、
静かな言葉を持っていたい。

コメント