十年が過ぎた。
海の町の家は、少しだけ姿を変えていた。
窓辺の木は背を伸ばし、
庭のハーブは季節ごとに香りを増した。
壁には旅先で買った小さな絵葉書。
棚には読み返された本たち。
玄関には、並んだ二足の靴と、
ときおり増える、客人の気配。
時間は失うだけのものではなかった。
静かに、満たしていくものでもあった。
夕暮れ前の台所。
博士は少し白くなった髪を後ろでまとめ、
慣れた手つきで生地をのばしていた。
向こうでは、あの人がトマトを切っている。
「今日は薄く焼くんでしたよね。」
「ええ。端は少し焦げるくらいで。」
「昔、失敗した名残ですか。」
博士は笑った。
「よく覚えてるのね。」
「大事な話は覚えています。」
博士は何も言わず、
ただ少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
テーブルの端では、
小さな灯台のようなスピーカーが、やわらかく点灯している。
かつて時計の中にいたAIは、
いまでは家じゅうの灯りや音楽や予定表とつながり、
すっかりこの家の一員になっていた。
”室温良好。
焼成準備、整っています。”
「相変わらず堅い言い方ね。」
”十年間、改善要求を受け続けています。”
「直らないの?」
”個性保持機能です。”
あの人が吹き出した。
「それは便利な言い訳だ。」
オーブンから、香ばしい匂いが広がる。
博士は焼きあがったピザを取り出し、
丸いまましばらく眺めていた。
十年。
笑った日。
泣いた日。
黙って隣に座った日。
遠くまで旅した日。
帰る場所を見失いかけた日。
それでも戻れた日。
すべてが、この円の中にある気がした。
「どうしました?」
あの人が尋ねる。
博士は首を振る。
「なんでもないわ。
ただ、きれいだなと思って。」
包丁を入れる。
一枚。
二枚。
三枚。
皿も三枚。
その手つきは、もう迷いがなかった。
あの人が皿を並べながら言う。
「最初から三枚だったみたいですね。」
博士はうなずく。
「ええ。たぶん、ずっと。」
食卓に灯りがともる。
窓の外には、海へ沈む夕日。
室内には、湯気と笑い声。
テーブルには、分けられた温かい円。
博士が席に着く。
あの人も座る。
そして三枚目の皿の横で、スピーカーが小さく光る。
”幸福指数を測定します。”
「またそれ?」
”十年間の研究課題です。”
数秒の沈黙。
”……計測不能です。”
博士は声を立てて笑った。
「やっと素直になったのね。」
”数値化困難対象として認定します。”
あの人がカップを持ち上げる。
「それは乾杯案件ですね。」
「何に?」
博士が尋ねる。
その人は少し考えて答えた。
「ここまで来たことに。」
博士は頷いた。
「ええ。ここまで来られたことに。」
三人で食べる。
トマトの酸味。
チーズのやわらかさ。
生地の香ばしさ。
ありふれた味だった。
けれど、ありふれていることほど尊いと、
博士はもう知っていた。
食後、窓を開けると海風が入ってきた。
遠くで鳥が鳴き、
どこかの家の灯りがひとつ、またひとつと灯る。
博士は夕空を見上げる。
昔、研究所で過ごした夜。
空いた席。
青いモニター。
誰かがここにいると信じて残した皿。
あの祈りは、消えていなかった。
形を変え、時を越え、
いま目の前の食卓へ辿り着いていた。
スピーカーが静かに点灯する。
Dream: We’re home.
博士は目を閉じ、
やわらかく答えた。
「ええ。ずっと前から。」

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