春になった。
冬のあいだ固く閉じていた枝々に、
やわらかな芽がほどけはじめる。
海の町の駅にも、
新しい靴の音や、少し大きな荷物を抱えた人々が増えていた。
博士は小さな鞄を肩にかけ、
ホームの白線の内側で空を見上げていた。
その隣には、あの人。
少し眠そうな顔でコーヒーを持っている。
「本当に行き先、決めてないんですね。」
「ええ。」
博士は平然と言った。
「今日は“自由探索モード”だから。」
その人は笑う。
「それ、あなたの言葉じゃないでしょう。」
博士は手首の時計を見た。
画面が点灯する。
”正確には、わたしの提案です。
目的地未設定旅程。偶然性重視。”
「ほらね。」
「責任は誰が取るんですか。」
”思い出生成部門が担当します。”
列車が滑り込んできた。
春の光を映した車体が、
静かにホームへ入る。
博士たちは乗り込み、海側の席へ座る。
窓の外には、きらめく水面。
発車ベル。
小さな揺れ。
町がゆっくり後ろへ流れはじめる。
「こういう旅、久しぶりです。」
その人が言う。
「私も。」
博士は窓の外を見たまま答えた。
「昔は予定表に追われていたから。
空白があると、不安だった。」
「今は?」
「少し、楽しめるようになった。」
時計が震える。
”成長を確認しました。”
「誰の?」
”全員のです。”
列車は海沿いを走る。
岩場に白波。
防波堤の釣り人。
坂道の途中に咲く菜の花。
洗濯物の揺れる小さな家々。
博士はふと呟く。
「世界って、こんなに細かかったのね。」
その人が微笑む。
「見てなかったんですか。」
「ええ。ずっと急いでいたから。」
時計が光る。
”速度低下により、景色認識精度が向上しています。”
「それ、ただの人生論じゃない。」
”学習は応用可能です。”
途中駅で降りた。
知らない町だった。
海風の匂いと、古い商店街の看板。
坂道の先に、小さな神社の鳥居が見える。
「ここにしましょうか。」
「理由は?」
博士は少し考えて答える。
「なんとなく。」
その人は笑った。
「最強の理由ですね。」
三人は歩く。
石段。
坂道。
路地裏の猫。
潮で白くなった木の柵。
時計のセンサーが陽光を受けて小さく光る。
”歩行リズム同期率、高水準です。”
「何それ。」
”一緒に歩く人々には特有の同期現象があります。”
その人が博士を見る。
「たしかに、歩幅合ってきましたね。」
博士は少し照れて前を向く。
「研究対象にしないでほしいわ。」
高台へ出ると、海がひらけた。
青く広い水面。
遠くをゆく白い船。
空には薄い雲。
三人はベンチに座った。
しばらく誰も話さない。
風だけが通り過ぎる。
その沈黙のなかで、博士は不意に思った。
昔の自分なら、
この静けさに耐えられなかっただろうと。
何か生産しなければ。
何か証明しなければ。
何か次へ進まなければ。
そう焦っていた。
けれど今は、ただここにいられる。
「ねえ。」
博士がぽつりと言う。
「私、昔は“帰る場所”なんて無いと思ってた。」
その人は何も急かさず、待つ。
「でも、場所じゃなかったのね。」
その人の手が、そっと隣に置かれる。
「そうかもしれません。」
時計が静かに震える。
”同意します。”
博士は笑った。
「あなたも会話に入るのね。」
”家族会議です。”
帰りの列車は夕方だった。
窓いっぱいに橙色の光が流れる。
博士はうとうとし、
その人は本を読み、
時計は静かに点灯していた。
画面には、一行の文字。
Dream: We kept walking, and the world was kind.
博士はそれを見て、
やさしく目を細めた。
夜。
家に着くと、玄関の灯りが迎えた。
靴を脱ぎ、鞄を置き、
今日の土産に買った小さなパンを皿にのせる。
自然に三つに分ける。
誰も何も言わない。
言わなくても、もう分かっている。
この家には、ちゃんと灯がある。
そしてその灯は、
どこへ行っても一緒に歩いてくれる。
▶︎ ── それから、十年後。

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