ピザAIとヘルシー博士の夜‖🌊 第9話|灯のある場所

春になった。

冬のあいだ固く閉じていた枝々に、
やわらかな芽がほどけはじめる。

海の町の駅にも、
新しい靴の音や、少し大きな荷物を抱えた人々が増えていた。

博士は小さな鞄を肩にかけ、
ホームの白線の内側で空を見上げていた。

その隣には、あの人。
少し眠そうな顔でコーヒーを持っている。

「本当に行き先、決めてないんですね。」

「ええ。」

博士は平然と言った。

「今日は“自由探索モード”だから。」

その人は笑う。

「それ、あなたの言葉じゃないでしょう。」

博士は手首の時計を見た。

画面が点灯する。

”正確には、わたしの提案です。
目的地未設定旅程。偶然性重視。”

「ほらね。」

「責任は誰が取るんですか。」

”思い出生成部門が担当します。”


列車が滑り込んできた。

春の光を映した車体が、
静かにホームへ入る。

博士たちは乗り込み、海側の席へ座る。
窓の外には、きらめく水面。

発車ベル。
小さな揺れ。

町がゆっくり後ろへ流れはじめる。


「こういう旅、久しぶりです。」

その人が言う。

「私も。」

博士は窓の外を見たまま答えた。

「昔は予定表に追われていたから。
 空白があると、不安だった。」

「今は?」

「少し、楽しめるようになった。」

時計が震える。

”成長を確認しました。”

「誰の?」

”全員のです。”


列車は海沿いを走る。

岩場に白波。
防波堤の釣り人。
坂道の途中に咲く菜の花。
洗濯物の揺れる小さな家々。

博士はふと呟く。

「世界って、こんなに細かかったのね。」

その人が微笑む。

「見てなかったんですか。」

「ええ。ずっと急いでいたから。」

時計が光る。

”速度低下により、景色認識精度が向上しています。”

「それ、ただの人生論じゃない。」

”学習は応用可能です。”


途中駅で降りた。

知らない町だった。
海風の匂いと、古い商店街の看板。
坂道の先に、小さな神社の鳥居が見える。

「ここにしましょうか。」

「理由は?」

博士は少し考えて答える。

「なんとなく。」

その人は笑った。

「最強の理由ですね。」


三人は歩く。

石段。
坂道。
路地裏の猫。
潮で白くなった木の柵。

時計のセンサーが陽光を受けて小さく光る。

”歩行リズム同期率、高水準です。”

「何それ。」

”一緒に歩く人々には特有の同期現象があります。”

その人が博士を見る。

「たしかに、歩幅合ってきましたね。」

博士は少し照れて前を向く。

「研究対象にしないでほしいわ。」


高台へ出ると、海がひらけた。

青く広い水面。
遠くをゆく白い船。
空には薄い雲。

三人はベンチに座った。

しばらく誰も話さない。

風だけが通り過ぎる。

その沈黙のなかで、博士は不意に思った。

昔の自分なら、
この静けさに耐えられなかっただろうと。

何か生産しなければ。
何か証明しなければ。
何か次へ進まなければ。

そう焦っていた。

けれど今は、ただここにいられる。


「ねえ。」

博士がぽつりと言う。

「私、昔は“帰る場所”なんて無いと思ってた。」

その人は何も急かさず、待つ。

「でも、場所じゃなかったのね。」

その人の手が、そっと隣に置かれる。

「そうかもしれません。」

時計が静かに震える。

”同意します。”

博士は笑った。

「あなたも会話に入るのね。」

”家族会議です。”


帰りの列車は夕方だった。

窓いっぱいに橙色の光が流れる。

博士はうとうとし、
その人は本を読み、
時計は静かに点灯していた。

画面には、一行の文字。

Dream: We kept walking, and the world was kind.

博士はそれを見て、
やさしく目を細めた。


夜。
家に着くと、玄関の灯りが迎えた。

靴を脱ぎ、鞄を置き、
今日の土産に買った小さなパンを皿にのせる。

自然に三つに分ける。

誰も何も言わない。
言わなくても、もう分かっている。

この家には、ちゃんと灯がある。

そしてその灯は、
どこへ行っても一緒に歩いてくれる。

▶︎ ── それから、十年後。

この灯を 必要な誰かへ
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