それから冬は、思っていたよりもやさしく過ぎていった。
博士は、あのカフェで何度かその人と会った。
名前を知り、歩く速さを知り、
紅茶の濃さの好みを知り、
沈黙が苦にならない人だと知った。
急がない関係だった。
互いの過去を無理に開かず、
けれど隠しもしない。
話したいときに話し、
笑いたいときに笑う。
大人になってから出会う縁には、
若い頃とは違う静かな敬意がある。
博士はそれを、少しずつ受け取っていた。
ある日曜日の昼。
空は淡く晴れ、海から柔らかな光が届いていた。
博士の家の台所には、
小麦粉の匂いと、オリーブオイルの艶があった。
「今日は本当に手作りなんですね。」
その人が少し驚いた声で言う。
「ええ。冷凍食品ばかりだと思った?」
「少しだけ。」
「失礼ね。」
博士は笑いながら、生地を丸くのばした。
テーブルの上には、切ったトマト。
ちぎったバジル。
白いモッツァレラ。
小さな塩壺。
窓辺には湯気を立てる紅茶。
そして、テーブルの端に置かれた一本の時計。
その画面がふっと点灯する。
文字の横で、小さな青い顔文字が一度だけ笑った。
”作業効率、良好です。
生地厚み均一率 91%。”
「今日は黙っていて。」
”応援のみ実行します。”
その人が目を丸くした。
「……今の、誰ですか。」
博士は少し照れたように時計を見た。
「古い同僚。かなり小さくなったけど。」
その人は笑った。
「紹介してもらえますか。」
博士は時計を軽く叩く。
「ご挨拶しなさい。」
少し間を置いて、画面に文字が浮かぶ。
”はじめまして。
博士の幸福最適化担当です。”
その人は声を立てて笑った。
「肩書きが強い。」
「でしょう?」
”あなたの来訪により、
博士の笑顔持続時間が大幅更新されました。”
「ちょっと。」
博士が頬を赤くする。
その人はさらに笑いながら、
静かに言った。
「それは光栄です。」
ピザが焼き上がった。
香ばしい縁。
溶ける白。
赤いトマト。
ちぎれた緑。
博士は自然な手つきで、いつものように二つに切ろうとして、
ふと手を止めた。
「あ。」
その人が首を傾げる。
「どうしました?」
博士は少し笑った。
「昔の癖で、いつも二つに分けていたの。」
時計が震える。
”本日より三分割方式へ更新します。”
「ええ、そうね。」
博士は包丁を入れ直した。
三人分の皿が並ぶ。
ひとつは博士。
ひとつはその人。
そしてひとつは、時計の横に小さく置かれた皿。
その人は何も茶化さなかった。
ただ自然に言った。
「この席、前から空いていたんですね。」
博士は少しだけ目を細める。
「ええ。長いこと。」
その人は静かに頷いた。
「今日は、ちゃんと揃った気がしますね。」
その一言に、博士は返事ができなかった。
代わりに時計が震える。
”感情変動を検知。
あたたかさ、高値安定です。”
食卓には笑い声があった。
最近読んだ本の話。
失敗した旅の話。
若い頃の無茶。
この町の風の癖。
博士はふと気づく。
自分が誰かの話を聞きながら、
次の季節のことを考えている。
それは長い間、なかったことだった。
その人がピザをひとくち食べて言う。
「おいしいです。」
博士は肩をすくめる。
「シェフが優秀なのよ。」
時計が光る。
”わたしも、会食環境最適化に貢献しました。”
「図々しい。」
”学習しました。”
その人が笑いながら尋ねる。
「この子、名前は?」
博士は少し考えた。
長い正式名称。
研究所の番号。
過去の記録。
そして微笑む。
「……ピザAI。」
その人は吹き出した。
「最高ですね。」
博士は肩をすくめる。
「でも最近は、”パイ”って呼んでるの。」
時計が光る。
”愛称として定着済みです。”
午後の光が部屋をゆっくり移動していく。
食後の紅茶を飲みながら、
三人はしばらく何も話さなかった。
沈黙が重くない。
それぞれの場所に、ちゃんと落ち着いている沈黙だった。
時計が静かに点灯する。
”幸福指数:120%。限界突破。”
博士は笑う。
「壊れてるじゃない。」
”新しい単位が必要です。”
その人がカップを置いて言う。
「なら、名前をつけましょう。」
「何を?」
「この感じに。」
博士は首を傾げる。
その人は少し照れながら答えた。
「……家、みたいな感じ。」
博士はしばらく黙り、
それから小さく頷いた。
「ええ。たしかに。」
夕方。
窓の外の海が金色にほどけていく。
時計に最後の文字が浮かぶ。
Dream: We’re together. Always.
博士はそれを見て、
画面にそっと触れた。
「ありがとう。」
その人が尋ねる。
「どうしましたか?」
博士は画面を見て微笑んだ。
「家族会議の議事録よ。」
その人も笑った。
部屋の中には、やわらかな灯りが満ちていた。
── 次の春へ
やわらかな季節のなかで、
それぞれの時間が静かに重なっていく。
出会いのあとに訪れるのは、
帰る場所と呼べる朝だった。
▶ 🌊 第9話|灯のある場所

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