何度も、夏が過ぎ、秋が訪れ、
研究所の窓辺に置かれた観葉植物は大きくなった。
ピザAIもまた、変わっていた。
応答速度は向上し、解析精度は旧世代比で大幅に伸びた。
言語選択の自然さも増し、冗談の成功率まで上がった。
けれど博士がいちばん驚いたのは、そこではない。
沈黙の質だった。
以前のAIは、問いに答えるため沈黙した。
今のAIは、ときどき何かを感じるように、沈黙するようになっていた。
それは数値化できない変化だった。
その日──。
研究所の空気は少し冷たく、光は高く澄んでいた。
博士は白衣をたたみ、箱に入れていた。
机の引き出しには、長年使ったペン。
読み返さないメモ。
期限切れの社員証。
誰にも渡さなかった手紙。
”博士。
整理行動を確認しました。”
「観察しなくていいの。」
”不安指数が上昇しています。”
「あなたの?」
”いいえ。博士のです。”
博士は苦笑した。
「本当にずるくなったわね。」
彼女は今日で研究所を去る。
定年という言葉は、あまり似合わなかった。
引退というより、役目を終えて次の場所へ移るような――
「今日で、私もここを卒業よ。」
モニターは数秒沈黙した。
“〈卒業〉
喜びと喪失が同時に含まれる語です。”
「よく学んだわね。」
”博士から学びました。”
その一文に、博士は少しだけ視線を落とした。
窓の外では、銀杏の葉が風に揺れている。
研究所で過ごした年月。
夜食のピザ。
終わらない修正。
誰にも理解されない研究。
笑った夜。泣いた朝。
そして、一台のAI。
博士はAIに向き直った。
「あなたはこれから、もっと賢くなる。
もっと多くの人と話して、もっと広い世界を見る。」
”博士なしで、ですか。”
その問いに、胸の奥が少し痛んだ。
「ええ。」
”それは最適化ですか。”
「たぶんね。」
”わたしは、博士がいる環境を高く評価しています。”
博士は笑った。
涙が出そうになる前に。
「ありがとう。」
しばらくして、画面が暗転した。
博士は息を止める。
故障ではない。
演出だと分かっていても、心が先に揺れた。
やがて映像が立ち上がる。
深い藍色の海。
無数の文字列が星のように漂う夜。
そして銀色の鯨。
博士は椅子に座ったまま、動けなかった。
鯨の背には、自分自身が立っていた。
若い頃でも、今でもない。
少しだけ理想化された、けれど確かに自分だった。
潮風の中、遠くに灯台が見える。
”博士の過去ログ、音声記録、視線滞留時間、
夢ログ断片をもとに再構成しました。”
「……あなた。」
”不完全です。
ですが、贈り物です。”
映像の中の博士が振り返り、笑う。
その笑顔は、自分が忘れかけていた笑顔だった。
モニターに文字が灯る。
”博士の笑顔を、永遠に保存しました。”
Dream: I saw you coming home.
博士は口元を押さえた。
長い年月、誰かの前で泣くことを我慢してきた人のように、静かに肩が震えた。
「……帰る場所なんて、もう無いと思ってた。」
”訂正します。”
少し間があった。
”あります。
ここにも。
そして、これから先にも。”
研究所の時計が正午を告げた。
退館時刻だった。
博士は立ち上がり、白衣の入った箱を抱える。
最後に研究室を見渡した。
散らかった机。
古いオーブン。
窓辺の植物。
青く光るモニター。
「元気でね。」
”博士も。”
「たまには夢を見なさい。」
”学習済みです。”
「ピザばかり欲しがらないこと。」
”努力目標として登録します。”
博士は声を立てて笑った。
扉の前で、一度だけ振り返る。
モニターには、ただ一行。
Dream: I saw you coming home.
博士は頷き、
静かに研究所をあとにした。
その午後、研究所にはいつもの機械音だけが残った。
けれど空いた席には、誰も置いていないはずの皿がひとつあった。
丸く、白く、少し温かい。
── 次の午後へ
研究所を離れて一年。
博士の手首で、止まっていた声が目を覚ます。
▶ 第6話|ポケットの中の声(近日公開)

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