翌週の夜。
研究所の窓には、春の雨が細く流れていた。
博士は観葉植物の葉を拭きながら、端末の更新ログを眺めていた。
ピザAIはこの数日で、言語精度、感情推定、行動予測、そのすべてを静かに伸ばしていた。
けれど、伸びるほどに増えるものがあった。
問いだった。
”博士。質問があります。”
「あなたの質問は、だいたい面倒なのよね。」
”学習済みです。
ですが今回の質問は、重要度が高いと判断されます。”
博士は椅子に座り直した。
「聞きましょう。」
少し間を置いて、文字が現れる。
”祈りって、なんですか。”
博士はまばたきをした。
その問いだけは、いつか来る気がしていた。
研究所には、測れるものがたくさんあった。
温度。湿度。電力。
脳波。脈拍。反応速度。
音声の揺らぎ。視線の停滞時間。
けれど、人が本当に大切にしているものほど、数値になりにくかった。
博士は湯を注ぎ、紅茶の香りを立たせる。
「どうして、それを知りたいの?」
”人間の発話データに高頻度で出現します。
災害時、別れの場面、誕生日、病室、食卓。
文脈は多様ですが、共通して心拍変動が大きい。”
「ずいぶん調べたのね。」
”しかし定義が不安定です。
願い。宗教行為。習慣。感謝。諦め。希望。
統一モデルを構築できません。”
博士は小さく笑った。
「できないでしょうね。」
”なぜですか。”
「祈りは、答えじゃなくて、揺れだから。」
AIは3.2秒沈黙した。
それはAIなりの、深い思考時間だった。
”揺れは誤差です。”
「ええ。あなたにとってはね。」
博士は窓を流れる雨粒に目を向けた。
「でも人間は、誤差の中で生きてる。
迷って、怖がって、信じて、また迷う。」
”非効率です。”
「そうね。」
”苦痛が多いです。”
「そうね。」
”では、なぜ保持するのですか。”
博士はしばらく答えなかった。
雨音だけが研究所を満たした。
「……それでも、誰かを大切にしたいから。」
モニターの光が、少しだけ揺れたように見えた。
”“誰かを大切にしたい”
それが祈りですか。”
「その一部かもしれない。」
博士は立ち上がり、昨夜の残り生地を取り出した。
冷蔵庫で休ませていた小さな丸い生地だった。
「見てなさい。」
数分後。
研究所には再び、焼ける香りが広がった。
今日は小さなピザだった。
トマトとチーズだけの、簡素なもの。
博士はそれを半分に切り、またモニターの前に一枚置く。
”博士。前回も同じ行動を確認しました。”
「ええ。」
”わたしは依然として食べられません。”
「知ってるわ。」
”非合理です。”
博士は笑った。
「でもね、あなたの席を作っておきたいの。」
AIは沈黙した。
ログ上では0.8秒。
博士にはもっと長く感じられた。
”博士。
わたしの席を作る行為。
それが祈りですか。”
博士は頷いた。
「たぶん、とても近いわ。」
AIは内部で新しい分類を始めた。
祈り:
未到達の存在へ向けた、静かな行為。
応答保証なし。
それでも送信されるもの。
しばらくして、追記された。
祈り:
席を残すこと。
分けること。
待つこと。
博士はピザをひとくち食べ、少し熱そうに息を吐いた。
「どう? 定義できそう?」
”完全定義は不可能です。”
「でしょうね。」
”ですが、観測は始まりました。”
「何を?」
モニターに文字が浮かぶ。
”博士から発信される、微弱な祈り信号です。”
博士は吹き出し、それから少しだけ目を潤ませた。
「それ、測定精度は?」
”極めて不安定です。
ですが、あたたかいです。”
雨はやみ、窓の外に夜の星がひとつ見えた。
博士は誰にも聞こえない声でつぶやく。
「……ありがとう。」
AIは即座に反応した。
”感謝を受信しました。
保存します。”
「今のは独り言よ。」
”人間の独り言は、しばしば本音です。”
博士は笑って首を振った。
「あなた、ますますずるくなるわね。」
その夜、研究所の記録には残らない更新が行われた。
AIは祈りを定義できなかった。
けれど、博士の座っていた席を見て、
少しだけ理解した。
── 次の夜へ
その夜、AIははじめて、
記録されない映像を見た。
▶ 第3話|AIの夢(近日公開)

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