私は、海の底で生まれた。
潮の満ち引きは知っている。
月のめぐりも知っている。
深い場所で、光がどのように揺れて届くかも知っている。
けれど、人がどれほど短く燃える命かを、ほんとうには知らなかった。
ある日、水面の上に小さな舟が浮かんでいた。
そこにいた男は、静かな目をしていた。
海を恐れず、けれど侮らず、風の気配を読む目だった。
私は珍しく思った。
人はたいてい、海に何かを奪われた顔をしている。
けれど彼は、海に話しかけるように網を引いていた。
だから、姿を見せた。
男は驚いた。
それでも逃げなかった。
知らぬものを見た時、人はすぐ石を投げる。
けれど彼はただ、私を見ていた。
そのまなざしが、少し寂しかった。
こちらへ来ませんか、と私は言った。
海の下には、傷つける声の届かぬ場所があります。
急ぐ時刻も、老いを数える暦もありません。
彼は迷っていた。
けれどやがて、舟を寄せ、私の後を来た。
私は宮に灯を入れた。
珊瑚に灯をともし、魚たちに舞を教え、
貝殻には音楽を満たした。
彼が笑うたび、海の宮は少し春になった。
私は初めて知った。
ひとりの人がいるだけで、
場所の色は変わるのだと。
けれど彼は、ときおり遠くを見るようになった。
歌の最中に。
宴の途中に。
私の隣にいながら、もっと遠い場所を見る目をした。
波の音が聞きたい。
土の匂いを思い出す。
昔、誰かに呼ばれた声が夢に出る。
彼はそう言った。
私は分からなかった。
海の宮には、何でもあると思っていた。
けれど、何でもある場所にも、
その人の帰りたいものだけは無いことがある。
帰ります、と彼は言った。
その言葉で、海は少し冷えた。
引き止めることはできた。
この宮には、忘れさせる歌も、眠らせる香もある。
けれどそれは愛ではない。
だから私は、箱を渡した。
白く、小さく、手のひらに収まる箱。
地上へ戻っても、すぐには開けないで。
この世の重さに、心が沈むその時まで。
そう言いたかった。
けれど人の言葉は短く、
海の思いは長すぎた。
だから私は、ただこう言った。
決して、開けてはなりません。
彼はうなずき、去っていった。
その背を見送るあいだ、
私は初めて、自分の宮が広すぎると思った。
彼がいなくなってから、魚たちは静かになった。
珊瑚の灯りも、どこか痩せて見えた。
私は遅れて知った。
海の数日は、
地上では長い長い年月になることを。
知っていたなら、連れてこなかった。
知っていたなら、もっと早く返した。
知っていたなら。
海には、悔いを沈める場所がない。
やがて、水面の向こうに白いものが昇った。
細く、儚く、空へほどけていく煙。
箱は開かれたのだ。
止めていた時が、彼のもとへ戻った。
私は祈った。
どうか苦しみだけで終わらぬように。
どうか私と過ごした時が、
ただ奪われた時間ではありませんように。
人はいつか、私を妖しい姫と語るだろう。
男を惑わせた者。
人の時を奪った者。
残酷な異界の女。
それでもいい。
ただ、ひとつだけ真実がある。
私は彼を閉じ込めたかったのではない。
帰したかったのでもない。
ただ、失いたくなかった。
今もときどき、海の底で波音が変わる夜がある。
そのたび私は思う。
もしあの日、出会わなければ。
もしあの日、連れてこなければ。
もしあの日、もっと人の時間を知っていたなら。
けれど、どの後悔にも、彼の笑った顔がある。
だから私は、今日も海に灯をともす。
誰にも届かない場所で。
もう帰らない舟のために。

コメント