古着支援、災害地への千羽鶴、SDGs。
どれも「いいこと」として語られる場面を、私は何度も見てきた。
送る人は、善意だと思う。
業者も全員が誰かを騙そうとしているわけではないだろう。
現地で雇用が生まれる、障害者雇用につながる――
そうした側面があることも理解できる。
それでも私は、苦しくなる。
誰かを責めたいわけではない。
ただ、この仕組みの中に安心して立てない自分がいる。
善意なのになぜ苦しくなるのか
善意が語られる場では「疑うこと」そのものが悪いことのように扱われがちだ。
- 誰かのためになる
- 社会にとって良い
- 反対する理由が見当たらない
そう言われるほど、
「立ち止まる余地」や
「考え続ける余白」が消えていく。
私が感じているこの「苦しさ」は、感情の問題というより、
この仕組みを長く続けたときの姿が想像できない、 という違和感に近い。
善意そのものではなく、
善意への同意が自動化されてしまう空気が私を息苦しくさせているのだと思う。
古着支援は本当に持続可能なのか
古着支援について調べていくと、いくつかの現実が見えてくる。
- 実際に着られて役に立つ服は一部に限られる
- 再販・資源化・廃棄に回るものも多い
- 現地では管理や処分の負担が生じることもある
それでも私はこう考えている。
短期的には良い面もある。
- 一時的に雇用が生まれる
- お金が回る
- その場その場では誰かの助けになることもある
ただし、ここで問いが残る。
これは繰り返せる仕組みだろうか。
善意が途切れたあと何が残るのだろうか。
短期的な「良さ」と長期的に無理なく続く「健全さ」は同じものではない。
災害地への千羽鶴に感じたこと
千羽鶴には確かに祈りがある。
折る人の気持ちは本物だと思う。
けれど災害の現場では、
- 物資の仕分け
- 保管場所の確保
- 処分の判断
といった現実的な負担が生じることもある。
ここでも私は同じ感覚を抱く。
その場ではたしかに悪くない。
でも、それを長期的な「正解」として固定してしまっていいのだろうか。
祈りが相手の現実を通らずに置かれてしまう瞬間に、私は立ち止まりたくなる。
SDGsがズレて見える理由
SDGsは本来「目標の一覧」だ。
問いを共有するための地図だと思っている。
ここで言う「持続可能」とは数字や成長の話ではなく、
誰かが無理をし続けなくても成り立つか
という意味で使っている。
けれど現実では、
- ロゴを貼ることが目的になる
- 参加していない人が責められる
- 考え続ける人ほど、置いていかれる
そんな場面も見かける。
問題は理念ではなく、短期的な分かりやすさが、長期的な問いを覆ってしまう構造だと思う。
「何もしない方がいいのか?」という問い
考えれば考えるほど私はこの問いにぶつかった。
何かしたい。
でも、下手に動いて現地の負担や歪みを増やしたくない。
そしてこう考えるようになった。
短期的に良いことと、 長期的に続くことは分けて考えていい。
私が選んでいる いちばん地味な立ち位置
最終的に私はとても地味な場所に戻ってきた。
世界を救うことはできない。
でも、世界を雑に扱わないことなら、できる。
私がいま選んでいるのは、次のようなことだ。
- 余計に買わない
- できるだけ長く着る
- 直して使う
- 善意を送りつけない
- 参加しない自由を認める
その場を「良く見せる」行為より、壊れない方向に加担しないこと。
それが私にとってはいちばん持続可能だった。
これで世界は変わるのか
正直に言えば、劇的には変わらない。
拍手も起きないし、目に見える成果も少ない。
それでも私は、
短期的な「良さ」を否定せず、
長期的な問いを手放さない場所
に、いまのところ立つことにしている。
この記事は、特定の活動・団体・個人を否定するものではありません。
善意の存在や短期的な効果を認めたうえで、持続可能性という視点から、私自身の違和感と立ち位置を整理した記録です。
受け取り方や立場の違いがあることを前提にしています。
