「罪人にはどんな酷いことをしてもいい」
そんな言葉を見かけたとき、私は少し立ち止まった。
怒りの気持ちは理解できる。
ひどい事件もあるし、壊された人生もある。
それでもどこかに違和感が残った。
もし「罪人なら何をしてもいい」が許されるなら、その社会はどんな場所になるのだろう。
私はそのとき、衝動と行動は同じではないのではないかと考え始めた。
目次
衝動は人間のもの
人には衝動がある。
怒り。
憎しみ。
復讐したい気持ち。
それは人間の自然な反応だと思う。
感情はただ、そこに起きる。
問題は、その衝動をどう扱うかだ。
衝動は自由。でも行動には境界がある
私はこう考えている。
衝動はあっていい。
けれど行動には境界がある。
ダメなものはダメ。
いいものはいい。
もし何かを変えたいなら、暴力ではなく、別の方法で。
納得できないことがあったとしても、社会の中には守るべき線がある。
その線があるからこそ、私たちは同じ社会で生きていられるのだと思う。
「罪人なら何をしてもいい」という論理
もう一つ、ふと思ったことがある。
「罪人には何をしてもいい」という考え方は、犯罪者が自分の行為を正当化するときの論理と少し似た形をしているのではないだろうか。
「相手が悪いから、していい」
その構造自体は同じ形に見える。
だから私は、その言葉にどこか危うさを感じてしまう。
社会を変える方法
もし社会を変えたいなら。
言葉で。
制度で。
議論で。
時間をかけて。
暴力ではなく、別の方法で変えていく。
遠回りに見えるかもしれない。
それでも私は、その道を選びたい。
🌿 静かな灯り
衝動は人間だから起きる。
でも、衝動と行動は同じではない。
怒りを感じる日もある。
納得できない日もある。
それでも私は、暴力を選ばない。
それは私が守りたい境界だから。
簡単だからではない。
むしろ、簡単ではないからこそだ。
