消えるからこそ美しい|ジャグアタトゥーを「偽物」だと思わない理由

ジャグアタトゥーは、時間が経つと少しずつ薄くなり、やがて肌から消えていく。

永久に残るタトゥーとは違う。
けれど私は、それを「偽物のタトゥー」だとは思っていない。

本物かどうかを残る時間の長さだけで決める必要はないと思うからだ。

目次

ジャグアタトゥーは肌にしばらく宿る印

私はジャグアタトゥーを肌へ永遠に刻みつけるものというより、しばらくのあいだ身体と一緒に暮らす印のように感じている。

月を描く日もある。
花を描く日もある。
星や、葉や、そのとき心に浮かんだ線を描くこともある。

描かれた模様は数日をかけて肌の上で色を深め、その後は少しずつ薄くなっていく。

その変化も含めて、ひとつの作品なのだと思う。

消えることは価値がないことではない

花はいつか散る。
月は満ちたままではいられない。
香りも、音楽も、祈りの時間も、同じ形のまま永遠には続かない。

それでも、それらを偽物とは呼ばない。

残らないものにも、そのとき確かに存在した美しさがある。
ジャグアタトゥーも同じ。
消えるから価値が低いのではない。

消えていくことまで含めた表現なのだと私は考えている。

今の自分に必要な印を選ぶ

永久に変わらない決意だけが尊いわけではないと思う。

人は変わる。
季節も変わる。

身体の状態も心に必要なものも変わっていく。

今は月を描きたいと思っていても、次の季節には花を描きたくなるかもしれない。
以前は必要だった印がその役目を終えることもある。

ジャグアタトゥーはその変化を拒まない。

今の自分に必要なものを選び、しばらく身体に宿し、やがて手放していく。
そしてまた、新しく選び直すことができる。

私はその自由を、美しいと思っている。

身体を固定された物語にしない

身体に何かを描くことは、自分の身体について自分で選ぶことでもある。

どんな模様を描くのか。
どこへ描くのか。
いつ描くのか。
どのくらいの時間、共に過ごすのか。

自分で選んだ印が肌にあるとき、身体が少しだけ自分のもとへ戻ってくるように感じることがある。

けれど、その印は永遠に残ることを要求しない。

消えてもいい。
変えてもいい。
次は何も描かなくてもいい。
身体を、ひとつの決断や物語へ永久に固定しなくていい。

そのことにも、静かな安心がある。

描く時間そのものが残っていく

模様が消えたあと、何も残らないわけではない。

線を一本ずつ描いた時間。
呼吸を整えたこと。
肌の上に月や花が現れたときのこと。
鏡を見て、少しうれしくなったこと。

それらは、肌の色が薄くなったあとも自分の中に残っている。

作品は、物質として残ることだけがすべてではない。
体験として残るものもある。
記憶の中へ残るものもある。
そのときの身体と心に、そっと灯りを置くものもある。

私にとってのジャグアタトゥー

私は、ジャグアタトゥーを永久的なタトゥーの代用品として扱いたいわけではない。

永久に残るものには、永久に残るものの美しさがある。
消えていくものには、消えていくものの美しさがある。

どちらが上で、どちらが下ということではない。
生きている時間の長さや、存在の仕方が違うだけだ。

私にとってジャグアタトゥーは肌に刻みつける印というより、身体へ一時的に灯す小さな魔法に近い。

そのときの自分が選んだ月や花を、しばらくのあいだ肌に宿す。
そして、少しずつ薄くなり、身体から静かにほどけていく。

消えることは、失敗ではない。

この灯を 必要な誰かへ
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