一人の青年がいた。
怒りを抱えた青年だった。
世界は理不尽に満ちている。
そう思っていた。
人の顔を描こうとしても
うまくいかない。
人間は
どうしても苦手だった。
窓。
屋根。
石の影。
青年はそれを
黙って描き続けていた。
ある日、
一人の年上の画家が足を止める。
青年のスケッチを見て静かに言った。
「君は世界を違う角度で見ている。」
そんな言葉を青年は初めて聞いた。
画家は続ける。
「まず自然を描いてみなさい。」
二人は町の外へ歩く。
そこには
岩山があった。
風に削られた
硬い岩。
画家は青年に
紙を渡す。
「怒りを線に変えなさい。」
青年は
岩を見つめる。
理不尽なこと。
拒まれたこと。
理解されなかったこと。
胸の奥に
まだ残っている
「ナニカ」。
鉛筆を握る手に力が入る。
最初の線は
岩を切りつけるようだった。
紙に
深く食い込む。
一本。
また一本。
鉛筆の芯が
途中で折れる。
青年は止まらない。
新しい鉛筆を握り、
また描く。
線は
刻みつけるように重なる。
気づかないうちに
指先の皮が裂けていた。
紙の端に小さな赤い跡が残る。
青年はそれを
そっと指でこする。
岩の影が少し濃くなった。
画家は
黙ってそれを見ていた。
やがて青年は
鉛筆を止める。
胸の奥にあったものが
少しだけ静かになっていた。
画家は小さくうなずく。
「そうだ。」
そして言う。
「世界の理不尽さを芸術に変えなさい。」
風が岩を越える。
青年は
スケッチを見つめる。
しばらくして
青年は泣いた。
画家は
岩山の影を見たまま言う。
「ある世界で」
少し間を置く。
「一人は他人を殺した。」
青年は
その意味を理解できない。
画家は続ける。
「そしてもう一人は
自分を殺した。」
風が
静かに吹き抜ける。
画家は
青年のスケッチを見る。
そこには
荒い線で描かれた岩山があった。
画家は言う。
「でもこの世界では」
青年は顔を上げる。
画家は静かに言った。
「私たちはまだ描いている。」
夕方、二人は岩山のそばに座っていた。
風が草を揺らしている。
青年は新しいスケッチを見せる。
画家はそれを見て小さくうなずく。
「いい線だ。」
それだけだった。
けれど青年はそれで十分だった。
しばらくしてまた鉛筆を動かす。
線が増える。
世界はまだ理不尽なままだった。
それでも
二人は描き続けた。
