仕事もまた祈りである|参加できない罪悪感について

ある場に参加できないことを、人はときどき申し訳なさそうに語る。

忙しくて行けませんでした。
なかなか顔を出せなくて。
本当は関わりたいのですが、仕事が立て込んでいて。

その気持ちはよくわかる。
参加したいと思うこと。
つながり続けたいと願うこと。
できるなら時間をつくりたいと思うこと。

それはとても自然で、健やかな心だと思う。

けれど、そこに必要以上の申し訳なさは必要なのだろうか。

参加できないことはただちに不足ではない。
今、別の場所で果たしている務めがあるということにはならないだろうか。

仕事に向き合うこと。
誰かの暮らしを支えること。
責任を引き受けること。
疲れていても誠実に手を抜かないこと。
目立たない場所で、日々を整え続けること。

そうした営みもまた、十分に尊い。

見える場所に立つことだけが関わりではない。
声を上げることだけが貢献でもない。
それぞれの持ち場で灯りを絶やさぬ人たちによって、世界は静かに支えられている。

だから、もし今、何かに十分関われないとしても、
必要以上に自分を下げなくていい。

また関われる時が来たら、朗らかに扉をたたけばいい。
今いる場所で果たしている仕事もまた、祈りなのだと胸を張って。

この灯を 必要な誰かへ
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