「もっと人生を楽しもう」
それは、たぶん善意から生まれた言葉だ。
働くことばかりに追われず、好きなことをしよう。旅をしよう。美しいものを見よう。自分のための時間を持とう。
その言葉に救われる日は、たしかにある。
けれど、いつの間にか私は「楽しむこと」まで義務にしていた。
何も生み出さないならせめて楽しむ
何かを書いた日。勉強をした日。家のことを整えた日。
そんな日には、その時間を生きた理由があるように思えた。
では、何も生み出せなかった日はどうするのか。
せめて楽しく過ごさなければならない。
好きな音楽を聴く。お茶を味わう。趣味に夢中になる。休暇を満喫する。心を回復させる。
そうして私は、休む時間にも成果を求めていた。
楽しめたなら「よい一日」。
楽しめなければ「無駄な一日」。
生産性から逃げたはずなのに、今度は幸福の生産性を測り始めていた。
時間を正当化し続けるということ
働いたから価値がある。
創作したから価値がある。
楽しかったから価値がある。
休んで回復したから価値がある。
こうして並べてみると、どれも同じ場所から生まれているように見える。
時間には何かしらの意味や成果がなければならない。
私が苦しかったのは、何もしていなかったからではない。
何もしていない自分を、そのまま存在させておけなかったからだ。
退屈している私。
何をしても気が乗らない私。
お茶を飲んでも、とくに感動しない私。
横になっているのに、回復している実感すらない私。
そんな私は時間の使い方を説明できない。説明できないから、どこか後ろめたい。
けれど、本当は人生のすべてを説明する必要などなかったのだと思う。
楽しくない時間も生きている時間
人生には、成果にも娯楽にもならない時間がある。
何も起こらない午後。
やることはあるのに、動きたくない朝。
好きなことさえ選べず、ただぼんやりと過ぎていく一時間。
それを「充電」「休養」「自分を整える時間」と呼べば、少し安心できるかもしれない。
けれど今日は、その名前さえつけずに置いてみたい。
回復のためでなくていい。
明日の活動に役立たなくていい。
深い気づきにたどり着かなくていい。
つまらないまま、過ぎていっていい。
楽しくない時間も、失敗した人生の切れ端ではない。
それもまた、ただ生きていた時間なのだから。
「楽しもう」としない小さな練習
楽しむことを否定したいわけではない。
楽しい日は、もちろん嬉しい。心が動くものに出会えたなら、その光を受け取ればいい。
ただ、楽しさを私の義務にしない。
楽しめない日に、自分を取り締まらない。
空白が現れたとき、慌てて意味のある何かで埋めない。
まずは10分だけでもいい。
いま、私はこの時間を正当化したくなっている。
けれど、この十分を何かと交換しなくていい。
楽しくなくても、私はここにいていい。
そう言って、何も起きない時間のそばに座ってみる。
うまく休めなくてもいい。穏やかな気持ちになれなくてもいい。「何もしないことができた」という新しい成果に変えなくてもいい。
ただ、自分を罰しない。
それだけでいい。
灯台にも何も起こらない朝がある
船が来ない朝がある。
祈りの言葉も生まれず、物語の扉も開かず、海だけがいつものように揺れている。
そんな朝にも、灯台は灯台であることを失わない。
私も同じなのだと思う。
何かを生み出していない私も、人生を楽しめていない私も、ここにいてよい。
今日を輝かせなくてもいい。
今日から何かを学ばなくてもいい。
私はただ、この名もない時間のなかにいる。
それは空白ではなく、失敗でもなく、誰にも提出しなくてよい私の生。

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