信仰という言葉にはときどき少しだけ緊張感がある。
静かに祈ること。
節制すること。
何かを慎むこと。
自分を律すること。
もちろん、そういう時間も美しい。
でも最近、私は思う。
ケーキを食べながら祈ってもいいのではないか。と。
目の前にケーキがある。
ひと口食べる。
おいしい。
うれしい。
そして、なんとなく「ありがたいな」と思う。
🍰😋🙏
見た目は、まったく修行らしくない。
たぶん傍から見たら、ただケーキを食べている人である。
でも、私はこういうものも祈りだと思っている。
祈りと暮らしを分けない
私にとって祈りは、生活の中にある特別な時間というより生活そのものの土台に近い。
文章を書く。
お茶を飲む。
音楽を聴く。
何かを作る。
笑う。
疲れたら休む。
夕暮れがきれいなら、少し眺める。
その一つひとつを「これは信仰的だろうか」と分類する必要はない。
暮らしのずっと下に、静かな祈りが流れている。
そんな感じでいいと思っている。
ポイントカードを返してみる
信仰について考えていると、ときどき妙なポイント制度が心の中に現れる。
今日はちゃんと祈った。
誰かに親切にした。
我慢した。
頑張った。
だから少しくらい、よいことが起きてもいいのではないか。
そんな「功徳ポイントカード」を、知らないうちに握っていることがある。
でももし、大いなるものからの愛が本当に大きなものなら。
私が今日どれだけ立派だったかによって、増えたり減ったりするものなのだろうか。
そう考えると、このカードはもう返却してもいい気がしてきた。
💳👋
ちなみに貯まったポイントを何と交換できるのか考えてみたら、なぜか滝行や断食しか思いつかなかった。
それではポイントを貯めるほど苦しくなる。
制度設計がおかしい。
見た目はたぶん普通になる
信仰が暮らしに溶け込んでいくほど、外からは何も見えなくなるのかもしれない。
朝ごはんを食べている人。
庭を眺めている人。
本を読んでいる人。
ケーキを食べている人。
ただ、それだけ。
けれど本人の中では、
「おいしいな」
「きれいだな」
「今日も生きているな」
という小さな感覚の向こうに、
「ありがたいな」
がある。
それなら私は、それで十分だと思う。
いつか同じような誰かと
そして、こんなふうに暮らしている人にいつか会えたらいいなと思う。
信仰の深さを競わなくていい。
どちらが正しいか証明しなくていい。
苦労を勲章にしなくていい。
静かなものを大切にしながら、それでもくだらないことで笑える。
一緒にお茶を飲んで、
「このケーキ、おいしいね」
と言って、
「ありがたいね」
と言って、
その直後にはどうでもいいことで笑っている。
そんな関係があったらいい。
だから、この場所に小さな旗を立てておこうと思う。
大勢を集めるためではなく、
同じような場所を探している誰かが、遠くから見つけられるくらいの旗を。
🚩ここだよ。
祈りながら、笑っていてもいい場所。
今日も灯台では、たぶん誰かが静かにお茶を飲んでいる。
そしてテーブルには、ケーキがある。
🍰😋🙏

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