ギリシャ彫刻はなぜマッチョなのか|「美しい身体」から始まる美術史の旅

美術館で古代ギリシャの彫刻を眺めていると、ふと思う。
……筋肉質な人、多くない?

肩は広く、胸や腹には筋肉が浮かび、身体はすらりと整っている。もしや古代ギリシャの街を歩けば、「こんにちは💪」「パンをください」「どうぞ💪」という世界だったのだろうか。
それは少し怖い。

幸い、そういうことではないらしい。古代ギリシャにも、若い人も年老いた人も、細い人も太った人も、病気の人も、働いて疲れた人もいた。私たちが彫刻で見ているのは、古代ギリシャ人の平均的な身体ではない。

そこには、彼らが考えた「理想の身体」が表現されている。

では、なぜその身体が「美しい」とされたのだろう。

ここから、美術史の少し長い旅を始めてみたい。

目次

古代ギリシャ彫刻の筋肉は「理想」だった

古代ギリシャ、とくに古典期の男性像では、若く、健康で、鍛えられ、均整の取れた身体が繰り返し表現された。ただし、現代のボディビルのように筋肉が大きければ大きいほど美しいというわけではない。

大切にされたのはむしろ調和や均整だった。

肩、胸、腰、脚。身体の一部分だけが突出するのではなく、それぞれが釣り合い、全体として美しく見えること。古代ギリシャの彫刻家ポリュクレイトスは人体の理想的な比例について考え、その考えを作品にも表した。

つまり彫刻家たちは、目の前にいる一人の人間をそのまま石に写していたわけではない。

「人間の身体が最も調和した姿とは、どのようなものだろう」

そんな問いを、彫刻によって探していたともいえる。

本当に筋肉質な人もいた

もちろん、すべてが想像上の身体だったわけでもない。古代ギリシャには競技文化があり、レスリング、短距離走、円盤投げ、槍投げなど、身体を鍛える機会があった。ギュムナシオンでは若い男性たちが身体を鍛え、農作業や軍務、さまざまな肉体労働に携わる人もいた。

だから彫刻家たちは、実際に鍛えられた身体を観察することができたはずだ。ただ、そこからさらに選び、整え、理想化する。

現実の身体。観察された筋肉。そして、その社会が抱いていた「美しい人間」のイメージ。

それらが重なったところに、私たちが美術館で見る古代ギリシャの身体がある。

だから、古代ギリシャ人はみんなマッチョだったというより、古代ギリシャ美術では、鍛えられ調和した身体が理想の一つとして選ばれたと考えたほうが近い。

少し安心した。
街中が全員、💪💪💪💪💪だったわけではない。

なぜ「身体の美しさ」が大切だったのか

ここから少し面白くなる。

古代ギリシャでは、身体の美しさが単なる外見だけの問題ではなく、健康、若さ、勇気、節度、英雄性などと結びついて表現されることがあった。美しく整った身体は「この人は見た目が素敵ですね」だけでは終わらない。そこに、人間としての理想まで重ねられていく。

これは現代の私から見ると、少し立ち止まりたくなるところでもある。

身体の美しさと、人間としての価値。 この二つは、本当に結びついているのだろうか。

「美しい身体」があるならその外側には誰がいる?

ここで、美術館の椅子に少し座ってみる。

もし「これが理想的な身体です」という像が置かれたら、その瞬間に、そこから外れる身体も生まれる。
老いた身体。傷のある身体。病んだ身体。疲れた身体。太った身体。細い身体。障害のある身体。理想とされた比例から外れる身体。
そうした身体は、美しくないのだろうか。

さらに問いを変えてみる。
そもそも身体は、美しくなければならないのだろうか。

ここで私は、Body Dignity――身体の尊厳という考え方を思う。
身体を好きにならなければならない、ということではない。自分の身体をいつも美しいと思わなければならない、ということでもない。

美しいかどうかという評価とは別の場所に、身体の尊厳はあるのではないか。

美の基準を満たしたから尊重されるのではない。若いからでも、健康だからでも、整っているからでもない。
身体は「合格」することで、初めて尊厳を与えられるものではない。

古代の美しい青年像を眺めながら、そんな現代の問いまで浮かんでくる。

美術史は「何を美しいとしたか」の歴史でもある

美術史というと、年代や画家の名前、○○様式といったものを覚えていく世界を想像しやすい。けれど、別の歩き方もできる。

その時代の人々は、何を見ていたのだろう。 何を美しいと思ったのだろう。 そして、何を美しいものとして残さなかったのだろう。
そんな問いを持って作品を見ると、一体の彫刻から、その時代の人間観まで少しずつ見えてくる。

そして、その問いはこちら側にも戻ってくる。

現代の私たちは、何を「理想の身体」として繰り返し見ているだろう。広告、SNS、映画、ファッション、健康をめぐる言葉。私たちの周囲にも、たくさんの「こういう身体が望ましい」という像が置かれている。

それらをすべて拒絶する必要はない。美しいものを、美しいと思ってもいい。
ただ、「私はなぜ、これを美しいと思ったのだろう」と、ときどき立ち止まることはできる。
それだけで、身体を見る眼差しは少し変わるのかもしれない。

次の展示室へ

ところで、古代ギリシャ美術が、ずっと完璧な若者ばかりを作り続けたのかというと――そうでもない。

時代が進むと、彫刻の中に妙な人たちが現れ始める。疲れて座り込む拳闘士。傷ついた身体。年老いた人。苦痛にねじれる身体。

「理想的な人間とはこういうものだ」と整えていたはずの美術が、生きていれば、身体は傷つくし、疲れるし、老いるという方向へ眼差しを向け始める。

すると、さらに困った問いが出てくる。

美しい人を表した作品だけが、美しい作品なのだろうか。

どうやら、この美術館の床には穴が開いている。

🕳️
🪜

小さな札には、
「ヘレニズム美術――完璧ではない身体へ」

……降りてみよう。

次回へ続く。

この灯を 必要な誰かへ
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