AIを使って創作をしていると「これは自分の作品と言っていいんだろうか」と迷うことがある。
ただ、今日は少し問いを置いてみようと思う。
そもそも創作って、どこに作者がいることなんだろう。
作者は「全部を自分で作った人」なのか
たとえば映画。
映画監督は全部の役を自分で演じるわけではない。
カメラも、衣装も、照明も、音楽も、すべて一人で作るわけではない。
それでも私たちはその映画を「監督の作品」と呼ぶ。
たぶんそこには
「この場面は残す」
「ここは削る」
「この人物はここで笑わない」
「もっと静かにしたい」
そんな無数の選択があるからだと私は思う。
監督はすべてを自分の手で作ってはいない。
でも、作品がどこへ向かうのかを選び続けている。
作者は選択の中にいるのかもしれない
小説でも似ている。
言葉そのものは、もともと世の中にある。
作者が新しく「あ」という文字を発明するわけではない。
それでも
どの言葉を選ぶか。
誰に語らせるか。
何を言わせないか。
どこで物語を終わらせるか。
その選択によって、作品はまったく違うものになる。
AIと創作していると、この感覚はさらにわかりやすい。
「いや、この人はそんなこと言わない」
「綺麗だけど、この作品には合わない」
「これは残したい」
そんなふうに何度も何度も何度も選び直していると、自分が何を大切にしているのかが見えてくることがある。
もしかすると「これは違う」と感じる場所に、その人の作者性はかなり濃く出るのかもしれない。
作者には「責任」もあると思う
ただ選ぶだけでもない。
最後に作品を世に出すとき「AIがこう言ったから」では終わらない。
その言葉を残すと決めたのは自分だ。
だから私は、作者とは作品を作る人であると同時に作品について最終的な責任を引き受ける人でもあると思う。
人との共同制作でも、編集者と何度も作り直した文章でも、たくさんの人が関わった映画でも。
最後に
「これを作品として残す」
と決める人がいる。
そしてその人を、私は「作者」と呼びたい。
AIを使ったら作者はいなくなるのか
AIは、ペンやキーボードとは違う。
文章を考えたり、画像を作ったり、音楽を生成したりする。
だから単なる道具とまったく同じだとは思わない。
でも、AIを使った瞬間に人間の作者が消えてしまう、というのも少し違う気がする。
何を作りたいと思ったのか。
何を選び、何を拒んだのか。
何を最後まで守ったのか。
そして、その作品を世に出す責任を誰が引き受けたのか。
そこに人がいるなら、その人は作品の外に消えてはいない。
作者はどこにいるのか
私は今のところ、作者は、作品の中の「選択」と「責任」の場所にいるのではないかと思っている。
全部を自分の手で作ったかどうかだけではなく、
どんな世界を残したいと思ったのか。
何を「違う」と感じたのか。
そして最後に
「私はこれを残す」
と言えるかどうか。
AIを使って創作するようになって、むしろ私は「作者とは何だろう」という問いを考えるようになった。
答えを一つにしようとは思わない。
ただ、作者は自分の手で作ったものの中だけにいるのではなく、
何を選び、何を退け、何を残すと決めたのか。
その作品に置かれた、無数の「はい」と「いいえ」の中にもいるのだと、私は思っている。

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