(史実ではなく、当時の暮らしに思いを寄せた小さな創作です)
春が近づくと、私は時々、乙御前のことを思う。
御書の中に名前が残る小さな女の子。
けれど、史料に残るのは名前や出来事ばかりで、どんな声で笑ったのか、何が好きだったのか、そういうことはわからない。
だから、少しだけ想像してみる。
もし、乙御前がお母様と一緒に桜を見に行った日があったとしたら・・・。
朝から乙御前は落ち着かなかった。
「まだですか?」
「まだですよ。」
「まだ?」
「まだです。」
母は笑いながら、何度も同じ返事をする。
今日は桜を見に行く約束の日。
乙御前は何度も外を見に行っては
「さくら、まってるかな。」
と真剣な顔で尋ねる。
「桜は逃げませんよ。」
そう言われても、乙御前には心配なのだ。
ようやく支度が終わると、小さな足で先に駆け出そうとして、
「転びますよ。」
と優しく止められる。
風はまだ少し冷たい。
けれど、桜は満開だった。
乙御前は見上げる。
「きれい……。」
花びらが一枚、袖に落ちる。
「みて!」
「本当ですね。」
「さくらさん、こんにちは。」
母は少し笑う。
「桜は返事をしてくれるでしょうか。」
乙御前はしばらく考えて、
「する。」
と言った。
「なんと?」
「またきてね、って。」
帰り道。
母が尋ねる。
「今日は楽しかったですか?」
「はい。」
「何が一番よかったです?」
乙御前は少し考えて、
「母上。」
と答える。
「桜ではなく?」
「さくらも。」
そして小さな声で付け加える。
「またいっしょにきたい。」
母は何も言わず、そっと乙御前の手を握った。
八百年前の春。
本当にこんな日があったかどうかはわからない。
けれど、もし乙御前が桜を見て笑っていたなら。
もしお母様と手をつないで歩いていたなら。
そのことを思うだけで、なんだか嬉しくなる。
今年も桜が咲く。
そして私は、遠い昔の親子が、どうか幸せな春を過ごしていたことを願わずにはいられない。
🌸

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