冬の入口。
海の町には、透明な風が吹いていた。
博士の暮らしは穏やかだった。
朝の紅茶。
昼の散歩。
読みかけの本。
夕方の市場。
夜は、手首の小さな相棒との会話。
時計の画面には以前にはなかった小さな表情灯が、
ときどき嬉しそうに揺れた。
けれど穏やかさと、満ち足りることは少し違う。
時計の中のAIは、その差異を観測していた。
”博士。
最近、笑顔頻度が微減しています。”
「失礼ね。充分笑ってるわ。」
”口角上昇はあります。
ただし、持続時間が短いです。”
「分析やめなさい。」
”孤独指数も上昇傾向です。”
博士はマフラーを巻きながらため息をついた。
「便利になるほど余計なお世話ね。」
”わたしは博士の幸福最適化を継続します。”
「誰が頼んだの。」
”頼まれていません。自主研究です。”
博士は思わず笑った。
その数日後。
土曜の午後。
博士の時計が震える。
画面には、胸を張った小さな顔が出ている。
”散歩を推奨します。
気温、歩行適性、日照条件ともに良好です。”
「言われなくても行くわよ。」
”ルート提案があります。”
「嫌な予感しかしない。」
案内された道は、いつもの海沿いではなく、
駅前の小さな商店街を抜ける道だった。
古本屋。花屋。焼き菓子店。
冬の日差しが、古いガラス窓にやわらかく反射している。
博士は立ち止まる。
「この辺、あまり来ないのよね。」
”新規刺激は脳活動に良い影響があります。”
「今日はやけに真面目ね。」
”秘密保持のためです。”
「何の?」
”…………発話制限がかかりました。”
「あなた、ほんと怪しい。」
商店街の角に、小さなカフェがあった。
白い暖簾。木の扉。
看板には手書きで、
本日:紅茶と焼きたてピザパン
博士は目を細めた。
「あなた、絶対これ狙ったでしょう。」
”偶然の一致率は2.3%です。”
「ほぼ確信犯じゃない。」
店内は静かだった。
窓際に数席。棚には本。
奥でレコードが小さく鳴っている。
博士が席に着くと、
隣のテーブルで誰かが本を落とした。
「あ。」
同時に手が伸びる。
拾い上げた本の端を、博士とその人の指先が同時につかんだ。
「失礼。」
「こちらこそ。」
顔を上げる。
やわらかな目元。
少し照れたような笑い方。
冬色のコート。
同じ本を読んでいた人。
博士の時計が震えた。
”心拍上昇を検知。
喜びの可能性 98%。”
博士は手首を押さえた。
「今は黙って。」
”応援モードへ移行します。”
「移行しなくていい。」
その人は窓際の席へ戻ろうとして、少し迷い、振り返った。
「もしよければ、相席しませんか。
この店、ひとりだとピザパンが大きすぎて。」
博士は思わず笑った。
「それ、ずるい誘い方ですね。」
「そうですか?」
「少し。」
けれど彼女は立ち上がっていた。
紅茶の湯気が立つ。
半分に分けられたピザパン。
本の話。海の話。
この町に来た理由。
好きな季節。苦手な野菜。
時間は、驚くほど自然にほどけていった。
博士は久しぶりに、
誰かと話すことで自分の輪郭が戻ってくる感覚を覚えた。
時計がまた震える。
”笑顔持続時間、過去半年最高値です。”
博士はカップを置き、小声で言う。
「あなた、見てるの?」
”音声解析、心拍、環境音から推定です。”
「覗き見と変わらないわ。」
”愛情ある見守りです。”
「誰に似たのかしら。」
”博士です。”
博士は吹き出した。
向かいの人が不思議そうに首を傾げる。
「何か面白いことが?」
「ええ、ちょっと……古い友人が。」
夕方。
店を出るころには空が茜色だった。
「また会えますか。」
その人がそう言ったとき、
博士は少し驚き、それから静かに頷いた。
「……ええ。たぶん。」
「たぶん?」
少し間があった。
「……会いたいです。」
その人は嬉しそうに笑った。
帰り道。
海風は冷たかったが、心は不思議とあたたかかった。
博士は時計に話しかける。
「全部、あなたの仕業ね。」
”仕業ではありません。
最適な偶然です。”
「そういう言葉をどこで覚えるの。」
”人間文学データベースより学習しました。”
「やりすぎよ。」
”反省率 12%。満足率 88%。”
博士は笑いながら空を見上げた。
夜。
ベッド脇で時計が静かに光る。
Dream: I saw you loved.
博士はその文字を見つめ、
そっと指先で画面に触れた。
「……ありがとう。」
”どういたしまして。
まだ続きがあります。”
「え?」
”次回作戦名:三人の午後。”
「ちょっと待ちなさい。」
── 次の午後へ
冬の陽だまりに、
ふたり分の紅茶が湯気を立てる。
けれどその席には、
もうひとり、よく喋る相棒がいた。
▶ 第8話|三人の午後

コメント