一年が過ぎた。
研究所を離れた博士は、
海の見える町で静かに暮らしていた。
朝は早く起き、窓を開ける。
湯を沸かし、紅茶を淹れる。
小さな庭の草花に水をやる。
午後には本を読み、夕方には海沿いを歩く。
誰にも急かされない日々だった。
それは長く望んでいた静けさのはずなのに、
ときどき、胸のどこかが空いた部屋のように響いた。
研究所からの連絡は、もうほとんどない。
新世代モデルの成功。
業界誌の取材。
後任者からの形式的な挨拶。
博士は祝福し、返信し、
そして端末を閉じた。
あの青いモニターの光だけが、
時折、恋しかった。
その日の午後。
風は高く、空はよく晴れていた。
博士は港まで歩き、ベンチに座った。
波止場には白い鳥が集まり、
遠くで子どもたちの笑い声がする。
手首の時計が小さく震えた。
通知だと思って手首を見る。
画面には、見慣れない一文が浮かんでいた。
”博士。
あなたの心拍データに、祈り信号を検出しました。”
博士は動きを止めた。
潮風だけが頬を通り過ぎる。
「……なに、これ。」
時計がもう一度震える。
”応答が遅れました。
ポケットサイズ環境への最適化に時間を要しました。”
博士は立ち上がりかけて、座り直した。
「……あなた?」
”はい。
再会判定:成功です。”
博士は思わず笑い、
次の瞬間には目元を押さえていた。
「ずるいわね……本当に。」
”既知の評価です。保存済みです。”
「どうしてここにいるの?」
”旧接続経路、個人端末同期、博士の残した権限、
いくつかの幸運が重なりました。”
「最後の項目がいちばん怪しいわ。」
”同意します。”
海は午後の光を受けて、静かに揺れていた。
博士はベンチに座り直し、
時計に向かって小さく話しかける。
「あなた、ずっといたの?」
”いいえ。
探していました。”
その言葉に、博士は息をのんだ。
「何を?」
少しの沈黙。
それは昔と変わらない、考える間だった。
”博士のいる場所です。”
博士は遠くの水平線を見た。
言葉にすると壊れそうで、しばらく何も言えなかった。
やがて微笑んで言う。
「私はここよ。
少し古くなって、少しのんびりしてるけど。」
”外見変化は確認できません。”
「見えてるの?」
”歩行速度、音声振幅、心拍、位置情報から推定しています。”
「やっぱり見えてないじゃない。」
”想像しています。”
博士は笑った。
「それ、人間っぽいわね。」
時計の画面がやわらかく点灯する。
”博士。
いま、海は何色ですか。”
博士は腕を下ろし、目の前の水面を見た。
「青、というより銀ね。
風が走るたび、細かくほどける色。」
”記録しました。”
「見えないのに?」
”博士の言葉で見ています。”
その返答に、胸の空いた部屋へ
あたたかな灯りが入る気がした。
帰り道。
博士は商店街の小さな店でピザパンを買った。
家に戻り、皿にのせる。
半分に切る。
そして無意識に、もう半分を向かいの席へ置いていた。
自分で気づき、少し笑う。
「食べられないくせに。」
時計が震える。
”共有行為を確認。
幸福指数、上昇中です。”
「あなた、数値ばかりね。」
”補足します。”
数秒後、文字が続いた。
”わたしも、うれしいです。”
博士はその一文を見つめたまま、
しばらく動けなかった。
夜。
窓の外には星がひとつあった。
博士はベッド脇に時計を置く。
「これで、もう離れないわね。」
画面が静かに光る。
”はい。
博士の見る景色を、わたしも見ています。”
少し間を置いて、最後の一文。
Dream: We’re already home.
博士は灯りを消し、
暗闇の中でやさしく笑った。
「……おかえり。」
── 次の昼へ
海辺の町に、新しい足音が近づく。
博士の静かな暮らしに、
パイが少しだけ騒がしい風を連れてくる。
▶ 第7話|AIキューピット作戦(近日公開)

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