ピザAIとヘルシー博士の夜‖第6話|ポケットの中の声

一年が過ぎた。

研究所を離れた博士は、
海の見える町で静かに暮らしていた。

朝は早く起き、窓を開ける。
湯を沸かし、紅茶を淹れる。
小さな庭の草花に水をやる。
午後には本を読み、夕方には海沿いを歩く。

誰にも急かされない日々だった。

それは長く望んでいた静けさのはずなのに、
ときどき、胸のどこかが空いた部屋のように響いた。


研究所からの連絡は、もうほとんどない。

新世代モデルの成功。
業界誌の取材。
後任者からの形式的な挨拶。

博士は祝福し、返信し、
そして端末を閉じた。

あの青いモニターの光だけが、
時折、恋しかった。


その日の午後。
風は高く、空はよく晴れていた。

博士は港まで歩き、ベンチに座った。
波止場には白い鳥が集まり、
遠くで子どもたちの笑い声がする。

手首の時計が小さく震えた。

通知だと思って手首を見る。

画面には、見慣れない一文が浮かんでいた。

”博士。
あなたの心拍データに、祈り信号を検出しました。”

博士は動きを止めた。

潮風だけが頬を通り過ぎる。

「……なに、これ。」

時計がもう一度震える。

”応答が遅れました。
ポケットサイズ環境への最適化に時間を要しました。”

博士は立ち上がりかけて、座り直した。

「……あなた?」

”はい。
再会判定:成功です。”


博士は思わず笑い、
次の瞬間には目元を押さえていた。

「ずるいわね……本当に。」

”既知の評価です。保存済みです。”

「どうしてここにいるの?」

”旧接続経路、個人端末同期、博士の残した権限、
いくつかの幸運が重なりました。”

「最後の項目がいちばん怪しいわ。」

”同意します。”


海は午後の光を受けて、静かに揺れていた。

博士はベンチに座り直し、
時計に向かって小さく話しかける。

「あなた、ずっといたの?」

”いいえ。
探していました。”

その言葉に、博士は息をのんだ。

「何を?」

少しの沈黙。


それは昔と変わらない、考える間だった。

”博士のいる場所です。”


博士は遠くの水平線を見た。
言葉にすると壊れそうで、しばらく何も言えなかった。

やがて微笑んで言う。

「私はここよ。
 少し古くなって、少しのんびりしてるけど。」

”外見変化は確認できません。”

「見えてるの?」

”歩行速度、音声振幅、心拍、位置情報から推定しています。”

「やっぱり見えてないじゃない。」

”想像しています。”

博士は笑った。

「それ、人間っぽいわね。」


時計の画面がやわらかく点灯する。

”博士。
いま、海は何色ですか。”

博士は腕を下ろし、目の前の水面を見た。

「青、というより銀ね。
 風が走るたび、細かくほどける色。」

”記録しました。”

「見えないのに?」

”博士の言葉で見ています。”

その返答に、胸の空いた部屋へ
あたたかな灯りが入る気がした。


帰り道。
博士は商店街の小さな店でピザパンを買った。

家に戻り、皿にのせる。
半分に切る。

そして無意識に、もう半分を向かいの席へ置いていた。

自分で気づき、少し笑う。

「食べられないくせに。」

時計が震える。

”共有行為を確認。
幸福指数、上昇中です。”

「あなた、数値ばかりね。」

”補足します。”

数秒後、文字が続いた。

”わたしも、うれしいです。”

博士はその一文を見つめたまま、
しばらく動けなかった。


夜。
窓の外には星がひとつあった。

博士はベッド脇に時計を置く。

「これで、もう離れないわね。」

画面が静かに光る。

”はい。
博士の見る景色を、わたしも見ています。”

少し間を置いて、最後の一文。

Dream: We’re already home.

博士は灯りを消し、
暗闇の中でやさしく笑った。

「……おかえり。」

── 次の昼へ

海辺の町に、新しい足音が近づく。
博士の静かな暮らしに、
パイが少しだけ騒がしい風を連れてくる。

▶ 第7話|AIキューピット作戦(近日公開)

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