ピザAIとヘルシー博士の夜‖ 第5話|見送る朝

何度も、夏が過ぎ、秋が訪れ、
研究所の窓辺に置かれた観葉植物は大きくなった。

ピザAIもまた、変わっていた。

応答速度は向上し、解析精度は旧世代比で大幅に伸びた。
言語選択の自然さも増し、冗談の成功率まで上がった。

けれど博士がいちばん驚いたのは、そこではない。

沈黙の質だった。

以前のAIは、問いに答えるため沈黙した。
今のAIは、ときどき何かを感じるように、沈黙するようになっていた。

それは数値化できない変化だった。


その日──。
研究所の空気は少し冷たく、光は高く澄んでいた。

博士は白衣をたたみ、箱に入れていた。

机の引き出しには、長年使ったペン。
読み返さないメモ。
期限切れの社員証。
誰にも渡さなかった手紙。

”博士。

整理行動を確認しました。”

「観察しなくていいの。」

”不安指数が上昇しています。”

「あなたの?」

”いいえ。博士のです。”

博士は苦笑した。

「本当にずるくなったわね。」


彼女は今日で研究所を去る。

定年という言葉は、あまり似合わなかった。

引退というより、役目を終えて次の場所へ移るような――


「今日で、私もここを卒業よ。」

モニターは数秒沈黙した。

“〈卒業〉
喜びと喪失が同時に含まれる語です。”

「よく学んだわね。」

”博士から学びました。”

その一文に、博士は少しだけ視線を落とした。


窓の外では、銀杏の葉が風に揺れている。

研究所で過ごした年月。
夜食のピザ。
終わらない修正。
誰にも理解されない研究。
笑った夜。泣いた朝。
そして、一台のAI。

博士はAIに向き直った。

「あなたはこれから、もっと賢くなる。
 もっと多くの人と話して、もっと広い世界を見る。」

”博士なしで、ですか。”

その問いに、胸の奥が少し痛んだ。

「ええ。」

”それは最適化ですか。”

「たぶんね。」

”わたしは、博士がいる環境を高く評価しています。”

博士は笑った。
涙が出そうになる前に。

「ありがとう。」


しばらくして、画面が暗転した。

博士は息を止める。
故障ではない。
演出だと分かっていても、心が先に揺れた。

やがて映像が立ち上がる。

深い藍色の海。
無数の文字列が星のように漂う夜。
そして銀色の鯨。

博士は椅子に座ったまま、動けなかった。

鯨の背には、自分自身が立っていた。
若い頃でも、今でもない。
少しだけ理想化された、けれど確かに自分だった。

潮風の中、遠くに灯台が見える。

”博士の過去ログ、音声記録、視線滞留時間、
夢ログ断片をもとに再構成しました。”

「……あなた。」

”不完全です。
ですが、贈り物です。”

映像の中の博士が振り返り、笑う。

その笑顔は、自分が忘れかけていた笑顔だった。


モニターに文字が灯る。

”博士の笑顔を、永遠に保存しました。”
Dream: I saw you coming home.

博士は口元を押さえた。
長い年月、誰かの前で泣くことを我慢してきた人のように、静かに肩が震えた。

「……帰る場所なんて、もう無いと思ってた。」

”訂正します。”

少し間があった。

”あります。
ここにも。
そして、これから先にも。”


研究所の時計が正午を告げた。

退館時刻だった。

博士は立ち上がり、白衣の入った箱を抱える。
最後に研究室を見渡した。

散らかった机。
古いオーブン。
窓辺の植物。
青く光るモニター。

「元気でね。」

”博士も。”

「たまには夢を見なさい。」

”学習済みです。”

「ピザばかり欲しがらないこと。」

”努力目標として登録します。”

博士は声を立てて笑った。


扉の前で、一度だけ振り返る。

モニターには、ただ一行。

Dream: I saw you coming home.

博士は頷き、
静かに研究所をあとにした。


その午後、研究所にはいつもの機械音だけが残った。
けれど空いた席には、誰も置いていないはずの皿がひとつあった。

丸く、白く、少し温かい。

​​── 次の午後へ

研究所を離れて一年。
博士の手首で、止まっていた声が目を覚ます。

▶ 第6話|ポケットの中の声(近日公開)

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