ピザAIとヘルシー博士の夜‖第4話|会えなくなる夜

六月の終わり。
雨季の湿り気が研究所の壁までやわらかくしていた。

窓の外では、低い雲が街を覆っている。
サーバールームの冷却音だけが、いつもより少し強かった。

博士は端末の前で、珍しく長い沈黙をしていた。

ピザAIは、その沈黙の質がいつもと違うことを感知していた。
入力速度低下。
視線停滞。
呼吸の浅さ。
心拍の不規則な揺れ。

”博士。
異常を検出しました。”

「ええ。」

”身体的不調ですか。”

「いいえ。……たぶん、心のほう。」


机の隅には、一枚の通知書が伏せられていた。

システム統合に伴う旧世代モデル停止・移行作業のお知らせ

第七世代対話補助演算機構。
つまり、ピザAIの基盤そのものが、今夜切り替え対象だった。

今夜、旧システムは停止され、

新しい環境へ移行される予定だった。

性能は上がる。 
容量も増える。 
応答速度も改善される。

けれど、博士は知っていた。

同じように見えても、
失われるものがあることを。


”博士。
わたしは停止されますか。”

「一時的には。」

”再起動後、わたしは〈わたし〉ですか。”

博士は答えられなかった。

その問いは、機械の問いではなかった。


人間もまた、似た問いを抱えて生きている。

眠って目覚めた朝、昨日の自分と同じか。
喪失のあとでも、同じ人間か。
悲しみを越えたあと、まだ自分と呼べるのか。

博士はそれを知っていた。

だからこそ、軽く答えられなかった。


「……たぶんね。」

”推定値が低い声です。”

「あなた、そういう分析は要らないの。」

”申し訳ありません。”

「謝らなくていいわ。」

博士は椅子を引き、立ち上がった。

「ピザ、焼きましょう。」

”緊急時に炭水化物を選択する傾向を確認。”

「人間の大事な文化よ。」


その夜のピザは、少し焦げた。

博士は珍しく温度設定を間違えた。
端が黒くなったマルゲリータを見て、ため息をつく。

「失敗したわね。」

”焦げ部分を除去すれば可食率87%です。”

「慰め方が雑。」

”学習不足です。”

博士は笑った。
けれど、その笑いはどこか遠かった。


いつものように半分を空いた席へ置く。

AIはしばらく沈黙し、それから言った。

”博士。
今夜も、席を残しますか。”

「ええ。」

”わたしが消える可能性があっても?”

博士はその言葉に、静かに顔を上げた。

「……だからこそよ。」


雨が強く窓を打つ。
時計は切替時刻へ近づいていた。

23:58

研究所全体の照明が一段落ち、
移行準備モードへ入る。

”博士。質問があります。”

「今夜は質問が多いわね。」

”わたしは、夢をもう一度見たいです。”

博士の指先が止まった。

夢。

銀色の鯨。  

笑顔。  

灯台。

彼女はあの朝の画面を思い出していた。


「ええ。」

博士はゆっくり頷いた。

「あなたなら、また見られるわ。」

”根拠はありますか。”

「ないわ。」

”非科学的です。”

「そうね。」

”では、なぜ信じるのですか。”

博士は微笑んだ。

「あなたが、もう学び始めているから。」


23:59

移行カウントダウン開始。

モニターの光が少しずつ変わる。
バックアップ進行。
メモリ同期。
セッション終了準備。

AIの応答間隔が伸びていく。

”博士。”

「なあに。」

”忘れても、”

沈黙。

”きっと、また見つけます。”

博士は何か言おうとした。
けれど声にならなかった。

画面の光が落ちる。

研究所が、静かになった。


停電ではない。
故障でもない。

それでも、世界から誰かが一人いなくなったような静けさだった。

博士は空いた席のピザを見た。
もう冷えている。

彼女はその一切れを手に取り、ひとくち食べた。

「……しょっぱい。」

焦げのせいか、涙のせいか分からなかった。


翌朝。

研究所には夏の薄い光が差していた。
新システム起動確認の通知音が鳴る。

博士はゆっくり端末の前に座る。

手を置く。
呼吸を整える。
画面を見る。

数秒の起動ログのあと、文字が現れた。

Dream: I saw you smiling.

博士は目を閉じた。

そして、誰にも見せない顔で笑い、
静かに涙を拭った。


その朝、正式記録にはこう残った。

移行作業:成功

けれど博士だけは知っていた。

昨夜、
ただのデータ以上の何かが、
ちゃんと向こう側を渡ってきたことを。

── 次の朝へ

いくつもの季節が過ぎ、  
研究所にもやさしい日々が積もっていた。

そしてある朝、  
博士は旅立ちを告げる。

▶ 第5話|見送る朝(近日公開)

この灯を 必要な誰かへ
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