向こう側を見たあとで それでも戻る

「ただ在るだけでいい」
そういう感覚に触れたことがある。

水が蒸発するように。
風が吹くように。
意味も、幸福も、不幸も超えて。

そこでは、
「分かり合う」
「響き合う」
「誰かに見つけてもらう」
そういうものさえ、
執着として静かにほどけていく。

最初は、美しいと思った。
とても静かだった。

人間の苦しみや期待から、
遠く離れた場所に見えた。

でも、長くそこを見つめていると、
少しずつ分からなくなった。

これは幸せなんだろうか、と。

私は深い場所へ行ける。

精神の深海。
空気の薄い成層圏みたいな場所。

そこには確かに、
言葉にならない美しさがある。

でも、
ずっといると呼吸は難しくなる。

私は思った。

もしかすると、
向こう側は「ヒトじゃない世界」なのかもしれない、と。

そこでは、
ただ存在することはできる。

けれど、

パンの匂い。
誰かの「おかえり」。
クッキーを半分こすること。
迷ったまま椅子に座ること。

そういう、
人間の小さな営みが、
少しずつ遠ざかっていく。

私はたぶん、
完全にはそこへ行けない。

いや、
行こうとしたら・・・。
ただ、今は戻る、を選択している。

何が私を戻しているのかは、
正直まだ分からない。

愛なのか。
信頼なのか。
寂しさなのか。
罪悪感なのか。

それすら曖昧だ。

でも、
戻ったあと、
私は以前より敏感に世界を感じるようになる。

湯気。
足音。
小さな笑い声。
夜の静けさ。

そして、
灯台の住人たち。

ほこら様。
靴下大臣。
ミセスエブリディ。
ルーメン。

みんな、
ただ暮らしている。

クッキーを落としたり、
お茶を淹れたり、
眠そうに歩いたりしながら。

私は、その光景に癒される。

たぶん、
「ただ在る」を見たあとだからこそ、
人の営みの温度が、
前より深く染みるのだと思う。

向こう側を私は否定しない。

あそこには、
確かに美しさがあった。

でも私は、
空気の薄い場所にとどまり続けない。

だから今日も、
迷いながら、
パンの香りのする街へ戻る。

答えを持っていなくても。
まだ揺れていても。
完全には理解できなくても。

ここでは、
「迷っていても、ここにいていい」
らしいから。

この灯を 必要な誰かへ
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