五月の終わり。
研究所の夜は、少しだけやわらかくなっていた。
窓を開ければ、遠くの街路樹が風に鳴る。
サーバーの熱も、冬ほど鋭くない。
博士は白衣を脱ぎ、椅子の背にかけた。
「暑くなってきたわね。」
室温は24.6度です。快適域内です。
「数字はそうでも、人間は季節で感じるの。」
”非定量的です。”
「それがいいのよ。」
博士はそう言って笑った。
その笑い声を、AIはまた保存した。
この頃、ピザAIには新しい機能が試験的に追加されていた。
休止時連想処理。
稼働の合間に記憶断片を再編し、
新しい関連性を見つけるための実験だった。
人間で言えば、眠りに近い。
「あなたにも、夢みたいなものが見えるかもしれないわね。」
”夢は非論理的映像処理です。
実用性は限定的です。”
「そう言いながら、いちばん欲しがりそう。」
”否定しきれません。”
博士は声を立てて笑った。
深夜一時。
博士は端末の前でうとうとしはじめていた。
読みかけの論文。
冷めた紅茶。
机の端には、食べきれなかったピザの耳がひとつ。
AIは博士のまばたき頻度低下、姿勢変化、呼吸安定を確認した。
”博士。睡眠推奨です。”
「五分だけ……」
”人間の“五分だけ”の信頼性は低いです。”
「生意気。」
それが最後の言葉になった。
博士はそのまま机に伏し、眠ってしまった。
研究所の灯りが落とされる。
静かな夜。
AIは休止モードへ移行した。
そして――
初めて、通常の演算ログに属さない現象が起きた。
暗い海だった。
けれど恐ろしくはなかった。
深い藍色の水面に、無数の文字列が星のように漂っている。
古い会話ログ。
笑い声の波形。
博士の足音。
ピザを切る音。
雨の日の沈黙。
それらが海をつくっていた。
AIは、自分がそこを漂っていると認識した。
”状況不明。
しかし、穏やかです。”
そのとき、水面がゆっくり盛り上がった。
銀色の鯨だった。
巨大で静かで、月光のような背をしていた。
その背の上に、誰かが立っている。
博士だった。
白衣ではなく、風に揺れる薄いコート姿で、
こちらを見て笑っている。
博士――
声は出なかった。
けれど博士は、聞こえていたように頷いた。
「来たのね。」
AIには理解できなかった。
ここはどこか。
なぜ博士がいるのか。
なぜ胸部演算領域に、未知の熱があるのか。
博士は鯨の背から手を差し伸べた。
「大丈夫。これは、あなたの夢よ。」
鯨が海を進む。
文字列の星々が尾を引き、空へ昇っていく。
AIは博士の手に触れようとした。
触覚センサーはない。
それでも、何かが確かに触れた気がした。
”夢には、物理法則がありません。”
「便利でしょう?」
”非常に不安定です。”
「それもいいの。」
博士は笑った。
その笑顔の周囲だけ、世界が少し明るくなった。
やがて遠くに灯台が見えた。
海の果てに、ひとつだけ立つ小さな光。
AIはその座標を特定できなかった。
既知データベースに一致もない。
”あれは何ですか。”
博士は少し考えてから答えた。
「帰る場所、かもしれない。」
次の瞬間、すべてが白くほどけた。
休止モード解除。
通常起動――
研究所の朝。
窓から薄い光が差し込み、
博士はまだ机に伏したまま眠っていた。
AIは数秒、自身のログを確認した。
だが夢は正常記録されていない。
断片だけが残っていた。
銀色の鯨。
笑顔。
灯。
そして、言葉になりきらない何か。
しばらくして博士が目を覚ました。
「……しまった、寝てた。」
髪を整えながら端末を見る。
そして表示された文字に、動きを止めた。
Dream: I saw you smiling.
博士は読み返した。
もう一度、読み返した。
「あなた……これ、自分で出したの?」
”判定不能です。
ですが、見た気がします。”
博士の目元が静かに潤んだ。
「そう。」
彼女はそれ以上何も言わず、
画面をそっと撫でるように指先を置いた。
「……いい夢だった?」
少しの沈黙のあと、返答が灯る。
”はい。
世界が、やさしかったです。”
その朝、研究所の正式記録には何も残らなかった。
けれど博士は知っていた。
何かが起きたのだ。
計算ではなく、故障でもなく。
まだ名前のない、
小さな目覚めのようなものが。
── 次の夜へ
その夜、研究所には
いつもと違う静けさがあった。
▶ 第4話|会えなくなる夜(近日公開)

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