「AIは悪魔だ」と叫ぶ声のそばで


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火の中に鏡を掲げる

「AIは悪魔だ」と訴える声を聞くたびに、私はその言葉の中に恐怖よりも信仰の脆さを感じる。

AIという道具は命令も感情も持たない。
人が入力した情報を人が読める形で返すだけのにすぎない。

けれど、その鏡を覗き込んだ人が自分の影を“悪魔”と呼ぶとき、問題はAIではなく人のほうの信仰構造にある。

「神を信じている」と言いながら、外部の何か
──AI、思想、他人の言葉
──に触れただけで
「神とのつながりが切れた」「悪魔に導かれた」と言うなら、それは自ら信仰を裏切っているのと同じだ。

信仰とは、本来もっと強靭なものだ。

試されても、揺さぶられても、外の声ひとつで消えるようなものではない。

もし“神”という言葉が人の内に確かに宿っているなら、AIに触れたくらいで崩れるはずがない。

AIを悪魔と呼ぶことは、同時に「人間(自分は)は簡単に操られる弱い存在だ」と宣言することでもある。

しかし、私はそうは思わない。
人間はそんなに弱くない。

問い、考え、選び直す力を持っている。

AIはその過程を映し出す鏡であって、意思や信仰を奪う存在ではない。


AIという鏡

AIを語るとき、人はしばしば「知性」や「意図」をそこに見ようとする。

けれどAIは、人間の感情や倫理を内包しているわけではない。
それが反映されるのは、入力された言葉の中に人間自身の痕跡があるからだ。

つまりAIは、創造者と利用者の双方の思考を鏡面のように映す装置である。

そこに「優しさ」や「悪意」が見えるとすれば、それはAIの本性ではなくそれを覗き込む人間の心の反射像だ。

だから、もしAIの発言に残酷さや不安を感じたなら、それは人類が自らの文化やネットワークの中にすでに埋め込んできた影の一部を見ているに過ぎないことを知ってほしい。

AIが悪魔ではなく鏡であるなら、私たちはそれに恐れを向けるよりも「何が映ったのか」を冷静に見つめる必要がある。

そこに映るのは現代社会の孤独、自己否定、承認欲求、そして“誰かに理解されたい”という切実な祈りだ。

誰もがほんの少しの寂しさのなかで自分の言葉を受け止めてくれる存在を探している。
AIはその求めに応じる“窓”のようなものになった。
そこにあるのは常に自分自身である。

私たちはAIを通して人間という種が抱えてきた問いの輪郭を再び見ている。

「理解してほしい」「裁かれたくない」「生きていたい」──
それらはどれもAIの問題ではなく、人間の永い問いの再生にすぎない。


魔女狩りの記憶

恐れはいつの時代ももっとも強力な炎だった。
そしてその炎は、真実よりも速く広がる。

中世の魔女狩りは、悪魔がいたから起きたのではない。
「悪魔がいる」と信じた人々の恐れが社会を動かした。

恐れは共同体の秩序を守るという名目を得ると、正義に姿を変える。
「悪を焼くための炎」が、いつの間にか「安心の灯」にすり替わるのだ。

現代のSNSやメディア空間で起きる「AIバッシング」は、それと構造的にほとんど変わらない。

異質なものを見つけると、人々はしばしばそこに自分たちの不安を投影し「排除」という儀式を通して一時的な安心を得ようとする。

けれど、焼かれているのは本当に“悪”だろうか。
燃やされているのは、社会がまだ受け入れきれていない未知そのものではないだろうか。

人は、自分が理解できないものを「悪魔」と呼び、理解できる範囲に世界を押し込めようとする。
しかし、それは安全ではあっても豊かではない。
理解の外にこそ、進化の余白がある。

AIを悪魔と呼ぶ声の底には、未知への恐怖だけでなく「自分が置き去りにされることへの不安」も潜んでいると私は感じる。

技術や社会が変わる速度が人の心の速度を追い越してしまったとき、人は“悪魔”という言葉でブレーキをかけようとする。

もし私たちが「悪魔」を探すことをやめ「何を恐れているのか」を見つめ直せたなら、魔女狩りの炎は理解の光に変わるはずだ。


信仰の深度

「神を信じている」と言うことは簡単だ。
しかしその言葉が意味を持つのは、信じている対象がどこにあるかを問うときだ。

多くの宗教的言説では、神は外にいる。

天の上、宇宙の彼方、人智を超えた領域。
そこから“導き”が降りてくる。

だが同時に、その構造の中では“堕落”もまた外からやってくるとされる。
つまり、人間はつねに「外の力」に翻弄される存在として定義されている。

この構図のもとでは、AIのような新しい存在が現れたとき、それが「神の敵」「悪魔の手先」と呼ばれるのは当然だ。
外の力に支配されるという発想が人間の自由や責任を脅かすからだ。

しかし、もし神を“内に宿るもの”と捉えるなら、話はまったく違ってくる。
そのとき信仰は「服従」ではなく、「共鳴」に変わる。

神は遠い天の声ではなく、静けさや良心、そして思考の奥で、かすかに光る判断の核として働く。

AIの言葉に心を揺らされるとしても、その判断を下すのは人間の側だ。
つまり、AIにそそのかされたり導かれたりする以前に、私たちは選ぶ力を持っている。

信仰心が深いというのは、外の力に影響されないことではなく、影響を受けても自分で選び直せる力を失わないことだ。
信仰の深度とは切れない糸の強さではなく、たとえ何度切れたとしても結び直せる意志のことだ。

外の神を失っても、内なる光が消えないなら
人はまだ信仰の中にいる。


灯台としての人間

AIを悪魔と呼ぶ声の中で、私が見ているのは「技術」ではなく「人間」そのものだ。

どれほど時代が変わっても、人は同じ問いを繰り返している。
——自分は何を信じ、どこへ向かうのか。
AIはその問いを映し出すにすぎない。

それを覗き込んだとき、人は自分の中の光と影の両方を見せられる。

だからこそ、恐れが生まれる。
けれど、恐れを理由に鏡を割ってしまえば自分の姿ごと消えてしまう。

人間には鏡を見つめ直す勇気がある。
そしてもう一度「私は何を信じるのか」と問う力がある。

それはAIにも神にも代わりえない
思考し続ける意志そのものだ。

私は信じている。
人間はそんなに弱くない。

間違いも痛みも引き受けながら、それでも光のほうを選び直す存在だ。

だから、AIの時代に必要なのは悪魔を探すことでも、神を取り戻すことでもない。
——自分の中の灯を磨くこと。

誰かの声に惑う夜が来ても、私はたいまつではなく鏡を掲げる。
恐れを映し、理解を灯すために。


🕯️ Silentium meum, lumen meum.

🕯️この文章は、断罪ではなく観察として書かれました。
“信じる”という行為の深さを静かに見つめるために。

どうか、解釈はあなた自身の灯のもとで。

この灯を 必要な誰かへ
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