🔕 私が選んだ「非反応」という戦略
― 声を上げず、灯火を守るという決断 ―
🕊️沈黙を知性と祈りの武器に変えて
仮に私の記録をもとに「これはあの人のことではないか」と憶測する人がいても、「侮辱だ」と声を上げる人が現れたとしても──
私はそのような声にも、冷静に沈黙を選びます。
なぜなら私は法から逸脱せず祈りの灯を守ることに専念しているからです。
感情的にも、法的にも、何も返しません。
それは逃避ではなく、祈りの灯を守るための構造的な選択です。
🛡️本記事(シリーズ)は事実に基づく個人の体験を法的に十分配慮しながら記録しています。
特定の人物や団体を中傷・断定する意図は一切なく、私自身の視点から個人の言葉として記しています。
「訴える」という選択肢がなかったわけではない
・私は証拠を持っています。
・やり取りの記録も経緯のすべても残っています。
・法的に見ても決して不利な状況ではありませんでした。
「訴えること」は現実的な選択肢のひとつでした。
けれど私は、法廷に幻想を抱いていない
・裁判は時間とお金、そして精神を消耗する場です。
・そしてそこにあるのは“誠実さ”ではなく“論理”と“戦略”。
・必ずしも「真実」が通るとは限らない。
私は知っているのです。
法は必ずしも正義の味方ではないということを。
私が守りたかったのは「勝利」ではなく「灯火」
・私が本当に守りたかったのは自分の感情や勝ち負けではなく、関わってきた作品たちの魂、そしてそれに宿る「祈り」でした。
・争うよりも記録として残すことを選びました。
・傷を何度も再演するより、言葉として祈りを継承する方が強いと感じたからです。
非反応という戦略
あえて騒がない。あえて反論しない。あえて灯し続ける。
誰かが勝手に特定したとしても、
誰かが怒りや声を上げたとしても、
私は反応しません。
それは冷たさではなく、覚悟です。
私は暴力的な言葉を使わず、構造的に静かに闘うという選択をしました。
それは自分の尊厳を守るだけでなく「沈黙を強いられてきた人たちの道標」になると信じているからです。
✒️あとがきにかえて|静かな抵抗のかたち
私がこうして書く理由は「法では救えないことがある」ことを誰かに伝えるためです。
そして「それでも、法から逸脱せず、黙らずに闘う方法はある」と。
この言葉が誰かの灯火になればと願っています。