コメント欄の怖い正義感に触れて。断定に疲れた私が選んだ祈り

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コメント欄で出会った「怖い正義感」

ある動画を観ていて、ついコメント欄を開いてしまいました。

そこに並んでいたのは、
「こうに決まっている」
「国が隠しているに違いない」

まるで事実を見てきたかのような断定的な言葉ばかり。

私は吐き気がするほどの違和感を覚えました。

なんでこんなに関係のない人たちが勝手に断定までして言い切れるんだろう?
その正義感はまるで刃のように鋭く、誰かを守るどころか切り捨てているように感じました。


なぜ人は断定してしまうのか

人は「分からないまま」では不安になるものです。

だからこそ、想像を事実のように語り安心を作ろうとするのかもしれません。
けれどその安心は、他者を傷つけたり、祈りを消したりしながら成り立ってしまうことがある。

私はその空気に巻き込まれることを、強く拒みたいと思いました。


私が選んだのは「祈り」

私は断定に参加したくない。
私は「わからない」を、わからないまま祈りに変えていきたい。


私の祈り

私は分からない。
でも、わからないままを祈りに変えて捧げる。
怒りではなく静けさが届きますように。


静けさへ還る道

コメント欄を閉じると胸のざわざわが少しずつ静まっていきました。

怖い正義感に巻き込まれるのではなく、静けさに還ること。

それが、私が選んだ祈りのかたちです。

“Silence and prayer are my light.”

この灯を 必要な誰かへ
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