食事のマナーは怒られるためのルールではなく、命と感謝の祈り。
子供たちがそれを知る機会を奪われている今、静かな違和感を記録します。
「あなたは大切に育っていい存在なんだよ──その一言を、祈りに託して。」
はじまりの違和感
外食をしたとき、食器がそのままになっているテーブルを見ると心がざわつく。
子供が散らかしても、親がそれをそのままにして去っていく──
「しょうがない」で終わらせていいのだろうか?
“マナー”ではなく、“祈り”の話
食事のマナーとは、誰かに怒られないためのルールではない。
それは、命に触れるための静かな祈りの所作。
・「いただきます」には命への感謝
・器を整えることは、感謝の循環の証
・箸の持ち方や振る舞いは、誰かを思いやる配慮
3|教わらなかった子供たち
これらを知らずに育つ子がいる。
教わらなければ祈るように食べることを知らないまま大人になる。
「大切にすること」を大切にしてもらえなかった子供たち。
そのことに私はとても悲しみを覚える。
悲しみの奥にある私の祈り
「どんな持ち方でも食べられればいいじゃん」
そういう言葉の奥に、命と手間と想いが見えなくなっていく悲しみがある。
私は子供たちに伝えたい。
「あなたは愛されて育っていい存在なんだよ」
と。
終わりに:祈りの灯火を消さないために
怒らず、妥協せず、伝えていく。
それは責めるためではなく、祈りを継ぐため。
今日も私は食器の取っ手を外に向けて整える。
誰かが見ていなくても──それは、私が“受け取った”という証だから。
🕯「余裕がなかった」大人たちへ
私は、食事のマナーを大切にしている。
それはただの作法ではなく、命への感謝、作ってくれた人への敬意、文化や歴史に対する祈りの態度だから。
けれど──
子どもにそれを伝えなかった大人たちを私は責めたいわけではない。
本当は「伝えたかったのに、伝える余裕がなかった」だけかもしれないと思う。
時間に追われ、疲れ果て、目の前のことで手一杯で、本当は大切にしたかったはずのものが後回しになってしまっただけなのかもしれない。
親も頑張っている。
私はそれを知っている。
だから怒りではなく**静かな憐れみ(mercy)**を灯す。
子どもたちに「祈りを込めて食べること」を教える機会を社会全体が奪ってしまったのだとしたら──
今ここで、その祈りを拾い直す者がいてもいいと思う。
私はもう一度灯す。
食卓にも
暮らしにも
ひとつひとつの命の営みにも
祈りの火を。
🕯必要な人に、静かに届きますように・・・。
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