🌌 引きこもり=恥じゃない。”家族会”をどう選ぶか

「引きこもり=恥」「家族が犠牲になり続ける」──そんな構図に違和感を覚えたことはありませんか?

近年は引きこもり当事者やその家族を支援する場として「家族会」が全国各地で開かれています。
しかし、実際に参加してみると「10年(以上)困っています」と言い続けるだけで状況が変わらない会も少なくありません。

私はかつて、そうした家族会に足を運びました。

そこで見たのは親御さんが長年子どもに食事を運び続け、犠牲になり続けている姿。
そして「否定せずに見守りましょう」と繰り返されるだけの支援のあり方でした。

この記事ではその体験から学んだ「家族会を選ぶ基準」と、「引きこもり=恥じゃない」という私自身の視点をお伝えします。


目次

家族会で感じた違和感

参加した家族会では長年「困っている」と話す親御さんたちが多くいました。
中にはリーダーを務めながら「10年以上子どもが引きこもっている」と語る人も。

そこで交わされた支援のロールプレイは「否定せず見守りましょう」というフレーズの繰り返し。

もちろん否定や強制は逆効果になりやすいですが、それだけで10年経ってしまうなら…本当にそれが支援なのか?と疑問を覚えました。

私には「親御さん自身が犠牲になり続けている」ように見え、苦しくて仕方がなかったのです。


親御さんに伝えたかったこと

そのとき私の心の中で湧いたのは親御さんを責めたい気持ちではありませんでした。

むしろ──

  • 「犠牲を続けなくてもいい」
  • 「あなた自身の人生を生きていい」

そう伝えたかったのです。

子どもを思い続ける気持ちに頭が下がる一方で、私は「親御さん自身が笑顔で生きる姿を見せることこそ、子どもにとって希望になるのでは」と感じました。


家族会を選ぶ私なりの基準

では、家族会を選ぶときに何を大切にすればよいのでしょうか。
私の体験から導いた私なりの基準は次のとおりです。

  • 親自身の人生を大切にする視点があるか (「あなたも幸せでいい」と語ってくれるか)
  • 小さな行動変化を促す工夫があるか (ただ「見守る」だけでなく、一歩を支える仕組みがあるか)
  • 長期化を美徳にしていないか (「10年困ってます」で終わらないか)
  • 本人だけでなく、家族自身の回復もテーマにしているか

こうした視点がある会は停滞を肯定するのではなく、前進の灯火をともしてくれるはずです。


私自身も「社会的引きこもり」

ここで少し、私自身のことを。

私は社会的には「引きこもり」に分類されるかもしれません。
自宅中心で過ごすことも多いし、会社勤めもしていません。
けれど幸せに暮らしています。

今はノマドワーカーやフリーランスなど、働き方は月〜金に会社へ行くことだけではありません。
「引きこもり=恥」と思ってしまうのは社会のラベルか、本人が内面化した呪縛でしかない。

生き方はもっと多様であっていいと私は思うのです。


結論と祈り

「引きこもり=恥」という構図も「家族が犠牲を続けることが愛」という構図もどちらも手放していい。

親も子も、それぞれ自分の人生を大切にしていい。

そして「家族会を選ぶ」という行為も、犠牲を続けるか、灯火を見つけるか
──それが分かれ道になります。

この記事を読んでくださったあなたが犠牲ではなく、共に生きる灯火を選べますように。

🕯️ Silent Lighthouse より

この灯を 必要な誰かへ
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