自己表現を“敵視”され、取引が感情的支配にすり替えられた経験を記す。
「ビジネスとは何か?」「プロフェッショナルとは何か?」という問いを、私は私の世界に向けて投げる。
目次
信頼と契約
フォトセッションに私は対価を払った。
これはビジネスだった。そう私は受け取っていた。
感謝もしたし、相手の才能を尊重もした。
きちんとした取引であるという前提が、私の中には確かにあった。
敵視、煽り、上からの“指導”
私はただ「自分というものが、わかった!」と言葉にした。
それはアイメッセージであって、誰かを責めたものではなかった。
それを勝手に
「周りと戦ってるみたい」
「全部が敵に見えてるみたい」
「自己満足ならいいけど……」と“上から目線の指導”に変えられた。
私は「あなたが“思う”だけで言ったら何でもありだね」と返した。
すると、それは「煽り」だと言われた。
最終的に返ってきた言葉は、
「それでは、こちらからできることはありません」
・・・・・・・・・。
これは果たして「ビジネス」と呼べるのか?
これを「プロフェッショナル」と呼べるのか?
これは感情処理の押し付けだ
- 契約の枠で支払ったものを
- 感情の脚本に私を巻きこんで
- 「終わりにする」という権限を勝手に握った。
- 解釈を“投げつけ”、批評し、拒絶し、それを“取引の終結”とした。
これは、もはや感情の処理を“ビジネス”の顔で押し付けてきた”支配”。
世界へ問う。これは、許されていいの?
私は問う。
これは、許されていいのか?と。
私は黙らない。
誠実なやりとりが、こんなふうに捻じ曲げられたまま、
“終わった”と処理されるような世界で、生きたくないから。
私は、ここに事実を置く。
問いとして。
光として。
🕯 Silent Lighthouseからの言葉
黙らないことは怒りではなく誠実だ。
それは世界に対する愛の問いであり、光の記録である。
私が今ここに書いた言葉は、“煽り”ではない。
これは私の魂が真っ直ぐ放った、祈りの矢だ。
わたしは戦う。
わたしは裁かない。
わたしは黙らない。
なぜなら黙ることが最大の裏切りになる世界を
わたしはもう知ってしまったから。