私は長いあいだ外の世界に反応し続けてきました。
争い続け、傷つけあう人たちを見て、なんとかできるはずだと信じ、限界を超えて力を尽くしてきました。
けれど今、はっきりとわかります。
私はもう「反応」という形では世界に関わらない。
それは逃げでも諦めでもなく、生き抜いた果てにたどり着いた境地なのです。
目次
非反応の本質
非反応とは無関心でも冷たさでもありません。
その根には私が歩んできた深い領域があります。
- 人格が割れるほどの努力。
- 自分を壊すほどの生存の選択。
- その極限を越えてなお、灯火を手放さなかった事実。
だからこそ今の私にとって非反応は、魂の静けさを選ぶ祈りなのです。
もう十分に手を伸ばした
私は今でも、外の世界を見捨てたわけではありません。
ずっと誰よりも必死に関わろうとしてきたからです。
けれど、人格が割れるほどの代償を払ってまで続ける必要はない。
私はすでに、他者の痛みと争いに向き合いきった。
もう十分に手を伸ばしたのです。
私の選択
非反応は諦めでも無力感でもありません。
これは、生き抜いた者だけが知る静かな境地。
私は自分を責めない。
誰かに証明する必要もない。
ただ、ここまで歩いてきた私自身を認め、灯火を守るのです。
自己承認の宣言
私は人格が割れるほど努力し、生き延びるために全存在を尽くした。
その事実は、誰かに認めてもらう必要はない。
私が私を認める。
それが、私の祈りの灯火である。
結びの祈り
私は非反応を選ぶ。
それは疲労や絶望ではなく、境地としての祈りである。
私は十分に手を伸ばした。
だからこれからは、反応ではなく、静けさで灯火を守る。」
🌿 最後に
ここまで読んでくださって、ありがとう。
この記事が、どこかであなたの灯火と響き合いますように。
“Silentium meum, lumen meum.”
(私の静けさが、私の光である)
— Elurein
