性教育の「明るさ」に違和感を覚えた子どもだった私へ──祈りとしての記録

※この文章は、性教育の取り組みを否定するものではありません。
私が子どもの頃に感じていた言葉にできなかった「違和感」と、それを今祈りとして言葉にする記録です。

性を学ぶことは命と向き合うこと。

だからこそ「正しさ」や「ポジティブさ」の前に「小さな胸の痛み」を見つめたかったのです。

目次

なんで、「わざわざ」?

ある投稿を見かけた。
性教育の絵本が施設の玄関の棚に並べられ、カラフルなポップが飾られている。

一見とても前向きで素敵な取り組みだと感じる。
でも──胸の奥がキュッとする感覚があった。

「どうして“性教育だけ”がこんなに別扱いされるんだろう?」
「なんで“わざわざ”強調されるんだろう?」

私は子どもの頃も同じことを感じていた。


図書室のすみっこで黙っていた私

学校の図書室の片隅に性教育の本が“特設コーナー”として並べられていた。
そこに足を止めるだけで誰かの視線を感じた。

先生たちは「恥ずかしいことじゃないよ!」「大切なことだよ!」と、明るく、ハイテンションで授業をしてくれていた。
でもそのテンションがかえって私には不自然で、本当のことを言いづらくしていた。

心がギュッとした。
でも・・・「言っちゃいけない」と思った。
違和感を感じた自分が間違っているような気がして。

私は“いい子”だったから──黙った。


「きもちわるさ」という名前をあげる

でもその時、胸に生まれた静かな痛みは確かにそこにあった。
「きもちわるさ」とでも呼びたくなるような、誰にも見えない小さな痛み。

いま、あのときの私に言いたい。

あなたは何も悪くなかった。
それはまっすぐに命と触れ合いたかったからこその違和感だったんだよ。


誰も責めずに、自分も傷つけずに生きるために

私は誰かを責めたいわけじゃない。
頑張っている誰かの行動を否定したいわけでもない。

ただ「わたしは、あのときこう感じていた」と、正直な声を灯しておきたいだけ。

もう自分だけが傷ついて黙る世界じゃなくていい。

“違和感”は“攻撃”じゃない。
それは新しい祈りの始まりになる。

わたしはこの感覚を祈りとして記録する。
誰も否定せず、でも自分も否定しないために──。

この文章が誰かの心の奥にしまわれた「きもちわるさ」にそっと触れる灯火になれたらと願っています。

──灯火の余白──

私の書く文章は今すぐに届かなくてもいい。
誰にも見向きされなくても構わない。

でも──
きっといつか、

時空を越えて
国境を越えて
名前さえ知らない“あのこ”の胸に
そっと触れるために、私は灯している。

この祈りが、まだ言葉を持たない誰かの感受性にそっと寄り添う光でありますように。

そしてこの灯が届いたとき、その胸の奥がほんの少しでもあたたまりますように。

あなたの感受性が、誰にもねじ曲げられず
そのままで愛されますように。

──Elurein

この灯を 必要な誰かへ
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